「みちしるべ No181」2005年12月号

目次(文書内リンク)
 視覚障害者にとっての自立支援法 パート3  藤原 義朗 
 全点協の思い出  溝渕 健一 
 リトアニアでのIKBE71  片岡 慈 
 エスペラントとはどんな言語か(1)  田元 美紀 
 編集後記  片岡 慈仲 

視覚障害者にとっての自立支援法 パート3  藤原 義朗
 自立支援法が成立しました。その後、厚生労働省ではこの法案担当の村木企画課長(高知県出身)が出世。それに続けと、省内の職員は「いやあ、自立支援法はいい法律ですよ。義務的経費といって障害福祉に関する財源はきちんと確保できます」と、
宣伝して廻っています。しかし、その舌の根も乾かない11月21日、政府の「生活保護費削減の穴埋めに、自立支援法予算をまわそうなどという許されない話が持ち上がっています。
 一方、視覚障害者の生活はどうでしょう。亡くなられた会員さんや守る会の元会員さんの中には人工透析をしている方もおられます。「入院、入所」についての相談事例も守る会にありました。しかし、施設入所は少ないのが実情です。
 今回はどうやって上手に使い、入所できるようにするかなど新制度を生かしていく方法を考えてみたいと思います。

1.人工透析と入所
 全国で人工透析患者は約22万人。そのうち視覚障害者はどのくらいおられるのか統計は出ていません。しかし、糖尿病やクロロキン網膜症などで腎障害と視覚障害を併せ持つ例は多く見かけられます。高知市では、平成17年4月現在で781名の方が人工透析をされています。その中で、支援費制度や介護保険による入所施設での入所は、たまにあるだけです。断わられている事が多いようです。まして、視覚障害のある透析患者の入所はかなり気厳しいようです。
 先日亡くなられた方が、ある身障療護施設のショートステイを申し込んだところ、
施設側はビビッてしまい、まず試験的にお母さんと一緒の体験からという事で始まりました。彼女の感想は「えらい静かなところだね」との事でした。
 施設の心配は透析施設までの送迎保障や急な病状変化への対応だったのでしょう。現在の施設制度では施設入所制度とガイドヘルパーなどの居宅制度は重複して利用できません。

2.ナイト施設とデイ施設
 今までの障害児者の入所施設は、1.重症心身障害児施設 2.療護施設(身体)
3.更正施設(身体、知的)3.授産施設(身体、知的、精神)5.通勤寮(知的)6.福祉ホーム(身体、知的、精神)
7.生活訓練施設(精神)などに分かれていました。これが、新法では障害者支援施設での夜間ケア施設という形になります。そして、昼間は日中活動支援を受けてもよいですよ、ということになります。この日中活動支援と言うのは、生活介護などのヘルパーサービス、機能訓練や生活訓練就労支援等の訓練などの給付を指しています。


3.人的サービスが一定率
 政府は制度を維持するためとか、公平とかいっていますが、もともとこの法改定の
発端は、増大する福祉サービス費用を抑えるためです。
 食費、水光熱費は原則実費負担(医療費、日用品費も実費負担)、人的サービスは
応能負担から定率負担、ある程度手元にお金を残すために月額負担上限というのを設けましたよ、というのが特徴です。
 さて、今までの入所の場合の負担金の考え方は、身体障害の場合の計算方式は人的
食費、水光熱費は応能負担、医療費・日常生活費は実費負担でした。新法では人的サ
ービスは定率負担、食費水光熱費、医療費・日常生活費は実費負担なります。月額負担上限は前号で述べましたが、
1.生活保護     0円
2.低所得1 15000円
3.低所得2 24600円
4.一般   37200円
※サービス利用の1割の定率負担と食費と水光熱費は原則実費負担です。

○収入に応じた個別減免
 これは預貯金が350万円以下の方が対象です。入所の場合、サービスの利用者負担と食費など実費負担をしても、手元に最低25000円だけ残るようになります。

○月収入66000円以下の場合は負担はありません。収入が6.6万円を超えてもその超えた額の半分が上限額になります。また、超えた収入が年金や工賃によるものである場合はその15パーセントになります。また、社会福祉法人を利用する場合は経過措置として、3年間は定率負担の上限額が半額になります。

4.市町村とともに考える
 先にも述べましたが、入所制度と在宅制度とに大きく分かれていたものが、新法では入所しながらでも居宅制度が利用できる可能性が出てきました。入所しながらガイドヘルパーを利用できる。デイサービスに行ったり、作業所に行くことも可能です。
 しかし、前号でも書きましたが、ガイドヘルパー事業やデイサービス事業は市町村による地域生活支援事業です。全国都道府県障害福祉主管課長会議でも、その内容ははっきり出ておらず、高知市や他の市町村でどんな事業になっていくのか、まだほとんど決まっていません。ぜひ、生きた制度にしていこうではありませんか。

5.門前払い
 12月5日の社会保障審議会障害者部会の資料では、障害程度区分で生活介護は区分3以上、施設入所は区分4以上という案が出ていました。6月に行われたモデル事業の一部を見てみると、弱視で区分1程度、全盲でかつ重複障害の方でやっと区分3でした。
 高知市は「今までより水準は落とさない」と、明言しています。しかし、介護保険の時を思い出してください。入り口は落とさなかったものの、だんだん厳しくなり、6年たった今、急激に落とされようとしています。

6.おわりに
 4の項では利用できる可能性について述べましたが、応益負担制度のもとで、支払うことができなかったら絵に描いた餅になります。ましてや、視覚障害者に不利な障害程度区分が実施されると、泣きっ面に蜂です。今後、新法の政省令が、213本出される予定です。また、厚生労働省では新法に対するパブリックコメントを募集しております。この機会に、私たちの意見をどんどんぶつけていこうではありませんか。
 今、全視協が中心に集めている「障害者の福祉医療サービスの利用に対する応益負担の中止を求める請願書」は、請願項目として1.応益中止2.ホテルコストの自己負担中止3.親家族への費用負担反対という内容です。
 点字も墨字の署名もどっさり集めて生きた自立支援制度を作っていこうではありませんか。

全点協の思い出  溝渕 健一
 昭和30年(1955年)といえば、いわゆる55年体制が確立した年であり、その年の経済白書は、「日本の経済は、戦前の水準に回復した」と述べています。トランジスタラジオが初めて売り出されたのも、この年でした。
又、普通高校の教科書の採択をめぐる汚職事件が、マスコミで大々的に報道されたことも忘れられません。なぜなら、この事件はその後の視覚障害者運動に、エポックメイキングともいうべき大きな影響を及ぼしたからです。
この一連の報道に触発されて真っ先に立ち上がったのが、東京教育大学(現在の筑波大)の付属盲学校の生徒たちでした。「活字版の教科書は選ぶのに困るほど、言い換えれば汚職を発生させるほど出版されているのに、なぜ点字の教科書はつくってもらえないのか!」という、生徒たちの胸の奥に潜んでいた素朴な疑問が急激に膨らみ、社会的な不平等への怒りとなって噴出しました。
9月5日に開かれた同校の生徒会は、長谷川貞夫氏ら4人の点字教科書対策委員を選出し、5日後の9月10日には、早くも東京周辺の六つの盲学校の生徒代表とともに、「全国盲学校生徒点字教科書問題改善促進協議会」(略称全点協)の結成準備会を立ち上げ、10月1日・2日の結成大会への参加を、全国の盲学校の生徒会に呼び掛けました。
実は、この当時の盲学校の生徒たちは、点字の教科書が皆無に近く、教師の講義をただ機械的にノートするだけという劣悪な教育環境の中にあっても、それほど具体的な疑問や不満は感じていなかったように思います。その点では、高知県立盲学校の生徒たちも同様でありましたが、呼び掛けがあってからの対応は、今思い出しても驚くほど機敏で積極的なものでした。生徒会は直ちに代表の派遣を満場一致で承認し、学校側は、高木校長の快諾を得て、丸山先生や平野先生を中心に完全な支援体制をつくって下さいました。この時代に、この種の生徒会活動が、学校ぐるみで展開されることは、希有な出来事であったと思います。
「せめて一そろえの点字教科書を」を合い言葉に、これまで1度も経験したことのない署名やカンパ活動に取り組み、戸惑いながらもメガホン片手に、帯屋町など目抜き通りに立ちました。それとともに、県下の各高等学校の生徒会に対しても、協力を要請しました。
全点協の要求の中心は、「せめて一そろえの点字教科書を」「「活字版の教科書との価格差補償を」「国立点字出版所の設立を」の3点で、国の費用で点字教科書の供給に責任をもってほしいというものでした。
この分かりやすい私たちの訴えは、道理にかなったものとして、マスコミにも大きく取り上げられたこともあって、びっくりするような反響を呼びました。わずか3週間足らずという短期間にもかかわらず、集まった署名は、高知で約3000筆、全国では、何と189,500筆にものぼり、国会に提出されました。
9月30日の午後、専攻科1年で生徒会長でもあった私は、学生服にたすき掛けという、ちょっと照れ臭い出で立ちで、東京に向けて出発しました。折からの台風に阻まれたり、山手線では、自動ドアに挟まれそうになって、もう一回りするなど、全盲のいなか者の一人旅の苦労を経験しながら、約30時間かけて漸く会場にたどり着いたことが、今でも懐かしく思い出されます。
10月1日〜2日の両日にわたって開かれた全点協の結成大会には、北は山形から南は柳川までの、25の盲学校の生徒代表が参加しました。ここでは、前述の要求貫徹のための具体的な活動方針について、熱心な討議が行われました。しかし、その会場にどういう人たちが出席されていたかについては、70歳を過ぎた今の僕には残念ながら記憶の手繰りようがありません。
大会終了後、2・3日掛けて準備を整えた私たち代表6名は、揃って各政党本部・国会・文部省を歴訪して、陳情書を手渡すとともに、懇談することも出来ました。何処へ行っても、異口同音に言われたのは、「君たちの要求はよく分かる。それにしても、この件に関して君たちの先生方は、いったい何をやっているのかね?」ということでした。その中に私たちは、激励のメッセージと、かすかな手応えを感じ取ることが出来ました。
全点協運動は、全国の盲学生を巻き込んで、初めて学習権の保障を社会に訴えた出来事でしたが、その成果として、翌昭和31年
(1956年)の4月から、修学奨励法の適用が、高等部にまで拡大されて、点字教科書の国家保障の道が開かれました。
又、この運動の中から私たちは、社会的連帯の意義と尊さを学び、その経験は、やがて、「全日本視力障害者協議会」(略称全視協)の結成に繋がり、本県においては、「高知県視力障害者の生活と権利を守る会」(略称守る会)に、脈々として元気に受け継がれています。

私自身も、この運動に参加したことで、増やしてもらった心の財産を、これからも大切に保っていきたいと思っています。

リトアニアでのIKBE71  片岡 慈
今年2005年7月30日から8月6日まで、リトアニアの首都ビリニュスで第71回国際盲人エスペラント大会(IKBE71)が開かれた。
リトアニアはバルト3国のひとつで面積は6万5千平方km、人口343万人の小さな国である。言語はリトアニア語、宗教はカトリック教徒が80%以上を占める。
13世紀の中頃から国家として存在し、 ポーランドと合体したりソ連に併合されたり、小国だけに波乱に富んだ歴史を重ねてきたが、1991年9月ロシアから独立し、 2004年3月にNATOに加盟、2004年5月にはEUにも加盟し、最近のGNPは 約6%と着実な歩みを続けている。
「6千人の命のビザ」で有名な杉原千畝氏が第2次大戦中、リトアニアの副領事として、 日本政府の命令を無視し、自らの強い決断で日本通過ビザを発給し、ナチスの残虐なユダヤ人迫害から多くの命を救ったことは皆さんもご存知のことと思う。ビリニュスと当時の首都カウナスにはそれを記念して桜の木が植えられている。
リトアニアはヨーロッパのほぼ中央にあり、 農業、林業が中心で、日本にはリネンや木材、鉄鋼などが輸入されている。
私は息子の義貴とともに7月31日朝9時30分、関空発のルフトハンザ航空で出発。 直行便がないのでフランクフルトとワルシャワの2箇所で乗り換え、ビリニュスに着いたのは現地時間の午後10時過ぎ、日本時間では明くる8月1日の朝3時頃であった。
リトアニアの気温は昼間は25、6度、私たちのホテルにはクーラーはなかったが、 暑くはなかった。通貨はリタスで、1リタスが約40円。1ユーロは約3.5リタスで、物価はかなり安く、次のフィンランドに行った時にはすごく高く感じた。
国際盲人エスペラント大会は、私が到着した時にはもう3日目になっていた。今回の テーマは「エスペラントを広めるための教材」で、 自国の言葉を使わず、エスペラントのみでエスペラントを教える教材が紹介されていたが、日本人にこれをそのまま適用するのはかなり難しそうだ。
定期総会では新しい役員が選出され、会長にはこれまでのドイツのテオドール・スペックマン氏に代わって、セルビア、モンテネグロのネデリカ・ロジャウィッチさん(女性)が 選ばれた。
今回は毎朝8時から9時までエスペラントの学習の時間があり、ナターシャさんが流暢なエスペラントでインストラクターを務めていた。 クイズあり、歌あり、ストーリーを読んだ後内容についての質問など、なかなか多彩だったが、私には難しすぎてついていきかねた。
いちばん楽しかったのはバスを借り切っての1日遠足で、ビリニュスから2時間ほどの、以前の首都カウナスにある 「リトアニア生活博物館」であった。 ここは小高い高原にある広い公園の中に古い住居や民具売り場、畑、遊園地などがあった。
その住居にはベッドや台所、暖炉などがそのまま保存されており、昔のリトアニアの暮らしがよく分かった。
ビリニュスの盲学校に最近エスペラントの学習サークルができ、5名ほどこの大会に参加していたが、そのひとり、ビクトリアという15歳の弱視の女の子が私の手引きをしてくれた。
背のすらっとした可愛い子で、覚えたてのエスペラントで私にたどたどしく話しかけたり展示物を説明し、分からない所は英語を使っていた。私が英語の所をエスペラントに直してやると、何度も繰り返して覚えようとしていた。彼女とシーソーやブランコに乗り、写真に撮ってもらったりもした。ビクトリアは高校生になったら普通学校に進みたい、と言っていた。
この大会で、私がずっと以前から文通していたロシアのアナトリー・マセンコ氏に初めて直接会ったが、 私を見つけた彼が 「カタオーカ」と叫びながら私を強く抱き締めた時は感激した。
ハンガリーのアッティラ氏(盲学校の音楽教師)はハンガリー名物の都会ワインをたくさん持ってきていたらしい(重かっただろうに)。たまたま夕食の時隣り合わせになり、 「ワインを飲むか?」と言うので喜んでもらって飲んだ。なかなかいい味だった。
エスペラント大会は講演や会議など退屈な時間も多いが、1週間も同じホテルに一緒にいると、いろんな触れ合いの機会があり、新しい友人もできるし、こういうことが大きな喜びである。

エスペラントとはどんな言語か(1)  田元 美紀
  *はじめに 
「守る会」の会長、片岡慈仲先生が国際盲人エスペラント大会に参加された。慈仲先生が大会への参加とその後の観光のためヨーロッパを旅行されている間にも、私は「エスペラントが使えることは何て素晴らしいことなんだろうか」としばしば思っていた。
 私は今年の4月から慈仲先生のエスペラント入門講座を受けている。講座を受ける前から、外国人に対するバリアフリー化について関心を持っていて、「エスペラントこそが本当にバリアフリーに相応しい言語だ」と思い、受講することにした。

  *由来
 エスペラントは1887年、ポーランドの眼科医ザメンホフが創案した人工の国際語である。ザメンホフはユダヤ人の両親のもとに生まれ、両親の愛情を受けて健やかに育った。ところが、家庭の外ではドイツ人、ポーランド人、ロシア人、さまざまな民族がいて、それぞれ違う言語を使っていたので、言うことがお互いに通じ合わず、争い、憎しみが絶えなかった。そこで、「人類が民族の違いを超えて、お互いに理解し合い、本当に仲良くなれるように」と願い、だれでもが習得しやすい、共通の言語を創ったのである。
「エスペラント」とは「希望する人」という
意味である。この言語を”Internacia Lingvo”
(国際語)という名で発表した当時、ザメンホフは”D-ro Esperanto”(希望者博士)というペンネームを名乗っていた。それがいつのまにか言語の名前になり、ザメンホフは本名を使うようになった。

  *エスペラントを学び、使う意義 
 国際的な集まりで特定の民族語を国際語とすると、それを母国語とする人とそうでない人との間に不平等が生じる。母国語とする人々は生まれた時から使い慣れた言語で自分の意見を述べられるのに、それ以外の人々は苦労して覚えた言語で述べなければならず、なかなか自分の気持ちを伝えられない。それだと、どうしても発言力に差が生じ、母国語とする人々には有利になるが、そうでない人々、特に少数言語を使用する人々、経済的に弱い国の人々にとっては不利になってしまう。
その点、エスペラントはどこの母国語でもないので、だれでもが同じように学び、母国語の異なる民族との間で対等に使うことができるし、少数言語を使う民族の言語権を保障することにもつながる。もちろん、お互いの母国語や文化・習慣を尊重した上でのことである。
エスペラントは単なる語学ではなく、人類愛、社会運動・平和運動とも深く関わっている。この言語を使う人のことをエスペランティスト(esperantisto)と呼ぶ。エスペラントを通じて知り合った友人に対しては、本当に心から親しめるような感情を覚える、という。「人類は一つの家族」「国際平和を願う集まり」という思想を持っているので、エスペランティストの間では、お互いを「サミデアーノ」(samideano、同じ考えをもつ一員)と呼んだりする。

アルファベット 
 エスペラントのアルファベットは次の
28文字である。母音はそのまま、子音には
oをつけて発音する。(点字版では小文字のみ表記する。点字で表記する場合、大文字には4、6の点を前置する。)
 A a?[アー]B b?[ボー]C c?[ツォー]
 C^ c^?[チョー]D d?[ドー]E e?[エー]
 F f?[フォー]G g?[ゴー]
G^ g^?[ヂョー]H h?[ホー]
H^ h^?[ほー]I i?[イー]J j?[ヨー]
J^ j^?[ジョー]K k?[コー]L l?[ろー]
M m?[モー]N n?[ノー]O o?[オー]
P p?[ポー]R r?[ロー]S s?[ソー]
S^ s^?[ショー]T t?[トー]U u?[ウー]U~ u~?[ウォー]V v?[ヴォー]
Z z?[ゾー]
 英語のq、w、x、yに当たる文字がない代わりに、スーペルシグノ(字上符)という記号の付いた文字(c^、g^、h^、j^、s^、u~)がある。ここではパソコンでの入力の関係上文字の右上に記号が付いているが、実際にはこの記号は文字の真上に付いている。また、uの真上に付く記号は実際には波型でなく、弓型に曲がった記号である(緩いU型)。パソコンで入力する場合、スーペルシグノをx[イクソ]で表記することもある。(c^→cx)
 スーペルシグノの付いた文字を点字で表記する場合は、u~を除き付いていない文字の点字表記に6の点を加える。u~については、uが既に6の点を含んだ文字なので、1の点を除き、代わりに4の点を加えて表記する。
c? c^? ?g?→?g^???h?→?h^???j?→?j^?
s?→?s^???u?→?u~?
(墨字では外字符を省略した)   

  *発音
 エスペラントの発音は「一字一音主義」で、書かれた通りに発音する。英語などのように文字が同じでもいろいろに発音したり、発音が同じでも違う文字を使ったりすることがない。書かれていながら発音しない文字(黙字)もない。だから、読みやすいし、単語の綴りも覚えやすい。
アクセントの位置は後ろから2番目の母音と決まっていて、例外がない(母音が1つの場合はその母音)。アクセントになる母音といちばん後ろの母音の間に子音がない場合、または子音が1つだけの場合には、アクセントになる母音が長音になることが多い。
 母音の発音は日本語のア、イ、ウ、エ、オに当たる5つだけであり、ローマ字と同じなので、はっきりしていて聞き取りやすい。子音の発音も例外を除いてローマ字と同じ。子音が続く場合は、子音と子音の間に母音が入らないようにして発音する。
 k:カ行 g:ガ行 s:サ行 z:ザ行
 t:タ行 d:ダ行 p:パ行 b:バ行
 n:ナ行 h:ハ行 m:マ行 l:ら行
 r:ラ行
 日本人の場合、lとrの発音の区別が難しいが、rは巻き舌のベランメエ調で発音するか、喉彦を震わせて発音するとよい。lは舌先を上の歯の根元に当てたまま発音するとよい。
 特に注意すべき発音:
c:ツァ行 paco[パーツォ]平和
scias[スツィーアス]知っている
f:ファ行 filmo[フィるモ]映画
      fero[フェーロ]鉄
v:ヴァ行 vido[ヴィード]見ること
      nova[ノーヴァ]新しい
j:ヤ行  japano[ヤパーノ]日本人
      juna[ユーナ]若い
      hejmo[ヘィモ]家(家庭)
u~:ワ行[w]au~das[アゥダス]聞く
    eu~ropa[エゥローパ]ヨーロッパの
c^:チャ行 c^ambro[チャムブロ]部屋
      dolc^e[ドルチェ]甘く 
g^:ヂャ行 seg^o[セーヂョ]いす
      g^oja[ヂョーヤ]嬉しい
s^:シャ行 s^i[シュィ]彼女(は、が)
     s^tono[シュトーノ]石
j^:ジャ行 j^au~do[ジャゥド]木曜日
    mang^aj^o[マンヂャージョ]食べ物  
h^:は行[x]h^olero[ほれーロ]コレラ
    c^eh^o[チェーほ]チェコ人
 g^とj^の発音が区別しにくいが、g^は破裂させるようにして発音するとよい。(g^はc^の有声音、j^はs^の有声音)
 h^は舌の奥を口蓋に近づけて、息を深く吸い込むようにしてハ行の発音をする。あまり出て来ない。
 ここに発音のカタカナ表記をしているが、それはあくまでも目安であって、正確ではないことを承知した上でのことである。エスペラントの不案内な方のことを配慮して表記した。本当は上手なエスペランティストの発音を聴いて身につけるのが最もよい。      
続く

編集後記  片岡 慈仲
ある会員さんから「最近のみちしるべは報告記事が多くて面白くない」というご指摘を頂きました。
確かにその通りかもしれません。 おそらく同じご意見の方も多いことでしょう。編集部として充分深く受け止めます。
ただ、 みちしるべは守る会の機関誌であり、 会の活動を会員全体に知らせることが第1の役目であること、高知の守る会は活動が活発で、報告しなければならないことが多く、 一定制限はしていますが、どうしても報告記事が多くならざるを得ないことを、皆さんにご理解頂きたいと思います。
また、 みちしるべは皆様から寄せられた原稿によってできている「読み手が書き手」の読み物ですから、ぜひ積極的に原稿をお寄せ頂くようお願いいたします。



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