みちしるべ
No 200  記念誌

目次(文書内リンク)
巻頭言  「みちしるべ」編集長 有光 勲
「守る会」結成に至る経過  片岡 慈仲
高知と私と全視協  大阪・藤野 孝明
全視協結成大会に参加した40数年前を振り返って  伊藤 教雄
「みちしるべ」の名付け親は私です  井上 芳史
高知県民気質(かたぎ) 東京・東郷 進
生誕200年に思う ルイ・ブライユ点字の21世紀的展開  東京・長谷川 貞夫
仲間ってすばらしい!! みちしるべ200号に寄せて  岐阜県恵那市・大上 俊子(初代編集長)
「みちしるべ」と私 古い墨字印刷機で作業に手間取ったあの頃を偲んで  大原 保子(2代目編集長)
過去の「みちしるべ」に掲載された記事より(139号、99年5月)故・徳田 恵さん
編集後記  有光 勲

巻頭言


   「みちしるべ」編集長 有光 勲
 今では各種選挙の点字投票や、まだまだ不充分とはいえ、大学入試や自治体での公務員採用試験も点字による受験が認められるようになりました。盲学校では点字の教科書もかなり充実してきています。
 道路では誘導ブロックや音響信号機も敷設されるようになり、私たち視覚障害者にとっては、歩行の安全確保のために大変役立っています。
 ところで、このような事例を挙げればきりがありませんが、こうした福祉的な施策の 改善は国や自治体が積極的に推し進めてくれたのでしょうか。決してそうではありません。どれ一つとってみても、私たちの先輩や我々視覚障害者自身が、血の滲むような活動をしてきたからに他なりません。  
 文中にも出てきますが、戦後間もない頃、点字の教科書はほとんどありませんでした。いわゆる「全点協運動」があったからこそ無料の点字教科書が豊富に配布されるようになったのです。
 また堀木訴訟は、最高裁で敗訴しましたが、中身は勝ち取りました。すなわちこの裁判がきっかけとなり、障害福祉年金と児童扶養手当が併給されることになりました。実は私自身、その恩恵を受けた一人なのです。父親が重度の障害者の場合、母子家庭とみなし18歳未満の子どものいる家庭に児童扶養手当が支給されるようになりました。扶養義務者の所得制限が高かったため、ほとんどの人が受給できました。
 障害者団体はいくつかありますが、会員数は少ないながらも、こうした取り組みの先頭に立って積極的に闘ってきたのが、我が全視協と守る会なのです。
 そのような歴史を垣間見ることができるのではないでしょうか。年配の方々は過ぎし日の昔を多いに懐かしんで下さい。また若い 
人たちは、先輩の歩んできた道程をたどってみて下さい。そうした意味に於いても、  是非ご一読いただければ幸いです。

「守る会」結成に至る経過


             片岡 慈仲
 高知の「守る会」結成について、初代会長寺尾さんに書いていただきたかったのですが、「多忙のため書けない」ということなので、代わって私が寺尾さんにお聞きしたこと、私の記憶、たまたま見つけた資料――守る会結成当時の会報第2号(1965・昭和40年9月25日発行)など――を元に簡単に書いてみます。
 守る会「入会のご案内」によると、昭和
40(1965)年「5月30日高知市盲ろう会館に同志31名が集まり」結成されたとあり、名称は「高知県視力障害者の生活を 守る会」となっています。
 結成の動機となったのは無免許問題。  昭和39年度に当時の厚生省は、「按柔師法」を一部改正し、昭和22(1947)年当時医業類似行為(主にあん摩、指圧)を行っていたもので、真にやむを得ない理由のため必要な届出ができず、その後営業の資格を停止された者に対して、一定の講習を受けさせて、新たに救済する――という措置を取りました。
 これに基づいて全国で約3,000名の申請がありました。多い所を挙げてみますと、大阪234名、高知233名、東京232名、北海道188名、福岡179名…となっています。四国の他県の状況は、愛媛約10名、香川は皆無という具合で、人口比率から見ても高知の233名というのは異常で、大量の不正な申請者が含まれていることは明らかでした。
 では、なぜ高知県にこんなにも申請者が 多かったのでしょうか?昭和32(1957)年に、香川県に続いて高知にも晴眼あん摩師養成学校を創ろうとする動きが発生し、県鍼灸マッサージ師会(県師会)を中心に県視力障害者協会(県視協)、盲学校などが視覚障害者の生活権を守るため、労働組合(県総評など)の協力も得て反対運動を展開し、この計画を潰すことに成功しました。しかしそれと引換えに県当局は、昭和33(1958)年、既に無免許営業をしていた171名という多くの者に県独自で(これは法的には根拠のない物ですが)仮免許証を与えたのです。この171名に加え更に新たに養成された無免許者62名が、この救済措置に便乗して届出漏れ者として申請したので233名となったわけですが、県師会には自ら無免許者を養成している者もおり、また仮免許証を貰った者もかなり加入していましたので、この事態に対して断固とした態度を取ることができませんでした。
 一方高知にも全国的な流れに遅れず視覚障害者の権利を力強く主張する勢力も育ってきていました。昭和30(1955)年、「せめて一揃えの(点字)教科書を」というスローガンを掲げて、当時の附属盲生徒会を 中心に闘われた全点協運動(国の責任で点字教科書を作ってほしい)という闘争に全国
25の盲学校生徒会が結集しましたが、高知盲生徒会も溝渕健一氏を代表として派遣し、国会や関係議員、文部省への請願・陳情に参加しています。昭和33(1958)年、勤務評定反対闘争では学園の民主化を掲げ、高知盲生徒会は校長不信任を決議するなど積極的に行動しました。更に昭和35(1960)年には全国的に安保闘争が繰り広げられ、私たちも街頭デモなどに参加しました。
 このような状況の中、昭和37(1962)年7月、大阪、和歌山、京都など関西の盲学校生徒会や若い卒業生を中心とした「民主的雑誌と読み物を自分たちの手で」という活動によってついに「点字民報」呼びかけ号が発行され、同年10月、創刊号の発行を実現しました。「点字民報」はこのような読み物を待ちかねていた視覚障害者の間に瞬く間に拡がり、読者会が各地に生まれ、高知でも翌年(38年)秋に塩見哲生氏を支局長として「点民支局」が誕生し、定期的に読者会が開かれるようになりました。
 ところで、県師会は代議員会で「233名に対し厳正な審査を求める」という決定をしたにも関わらず、幹部会がこれを裏切って「33年の171名の仮免許者をそのまま承認する」という方針を出すなど、その煮え切らない態度に多くの会員の間に不満が高まってきました。こういう状況の中、理療科教員や若い卒業生を中心に「33年組も含めた厳正な審査」を要求し、抜本的な無免許対策を県議会に請願しようと、先にも書きましたように、昭和40(1965)年5月、「高知県視力障害者の生活を守る会」が誕生したのです。守る会会員は県師会や県視協の中で 積極的にその民主化に努め、それまで会長などは数名の選考委員によって決められていたのを全員の無記名投票にするとか、会議の資料が全盲の者にも墨字でしか配布されないという状況を点字で配布されるようにするとか、休日を日曜日に替えさせるなど次々と新風を吹き込みました。
 なお、昭和42(1967)年、全視協が 結成された直後の守る会総会で、今後守る会をどうするかということになり、「一応新たな62名の申請者は阻止できたし、一定の成果を挙げたので、ここで解散し新しく賛同者を募って全視協に加入するべきだ」という意見と「私たちの要求はまだ完全には実現できていないし、新たな問題も沢山あるので、ここで解散せず、全視協に加入して全国の仲間とともに更に闘いを進めよう」という2つの意見が出され、結論に至ることができませんでした。そこで、「生活を守る会」は正式に解散されたわけではありませんが、ほとんどの会員がそのまま残って新たに「高知県視力 障害者の生活と権利を守る会」と改名して全視協に加わった形となりました。
 無免許問題が守る会の結成の一番の動機でしたが、現在もこの問題は根本的解決を見るどころかますますひどくなってきています。そして、その運動の中心となるべき県師会がその役割を果たしているとは言えないのも昔と同じです。私たち守る会の力をより 
強くし、正しい方針の下に先頭に立って活動していくことがこの無免許問題の解決にもつながるのではないでしょうか。

高知と私と全視協


          大阪・藤野 孝明
 振り返ってみると、高知には5度行って います。講演で3回、それに1989年10月の全視協第19回大会、更には1998年8月の全視協婦人部大会にも参加しました。なお、婦人部は次の2000年新潟大会で女性部に名称変更しています。  
 全視協大会では「大会宣言」を起草しましたが、多くの方々から高い評価をいただき大変嬉しかったことを覚えています。  
 婦人部大会の時はその2日目の日曜日、有名な朝市に妻と2人で出かけました。行きは路面電車に乗ったのですが、帰りは買い物の荷物がかさばったのと時間が気になり、タクシーで会場のサウスブリーズホテルに戻った思い出があります。  
 それに何と言っても高知と言えば、大阪、 
和歌山と共に全視協の黎明期を切り開いて きた「全視協御三家」と呼ばれる伝統ある組織だということです。全視協が結成された
1967年当時、私は我が故郷(ふるさと)九州・福岡に住み、通信教育で大学の勉強に悪戦苦闘していました。  
 結成大会はこの年の5月大阪で開かれましたが、29歳の正岡青年(現全視協会長)は「大いなる夢を胸に船で大阪入りした」という話を後年ご本人より聞きました。  
 私自身は戦後間もない小学2年の時、不発弾の暴発で視力と両手を失うという思いも寄らぬ重度の障害を持っていましたから、点字を覚えたのは18歳、大阪市立盲学校の中学部に入学を認められたのは20歳の時でした。  
 ですから、私は視覚障害者の権利を勝ち取り生活を守る運動の前進の中で励まされ育てられつつ、共感し合える大勢の仲間たちとめぐり合うことができました。私の最も切実な願いは、学ぶことと働くことでした。  
 そういう時期、私と全視協周辺では歴史に残るような運動が闘われていました。  
 就労の分野では、横浜税関の馬渡さんやテレビ局の鈴木さんの継続雇用を求める運動が、労働組合と連携する形で進められていました。  
 福祉の分野では、神戸の全盲のお母さん、堀木文子さんが、障害福祉年金と母子家庭への児童扶養手当の併給を求める裁判を起こしておられました。堀木訴訟は神戸地裁では、道理ある堀木さんの訴えが勝利しましたが、その後控訴審、上告審と闘われ、上級審では国の理不尽な言い分を司法が追認する形での敗訴に終わりました。しかしこの裁判は、10年余に渡る闘いを通して多くの人々に社会福祉の実情を知らせ、国の制度改善にも大きな力を発揮したのですから、最高裁で負けたとはいえ得難い経験と確信を私たちに もたらしたのです。  
 私は1971年4月に誕生した黒田革新府政の下、全国初の点字による教員採用試験に合格し母校の教壇に立つことができました。それ以来の30年に及ぶ教職生活があったからこそ、視覚と肢体の二重障害にも関わらず生きがいを実感できる人生を送れていると思うのです。
 今高知で運動の輪が広がり大きな成果を生み出しつつある、吉岡邦廣さんを中心とする視覚障害者の就労を広げ雇用を促進する取組みに強い感心と支持を寄せています。

全視協結成大会に参加した ―― 40数年前を振り返って ――


             伊藤 教雄
 「みちしるべ」200号を記念して、「全視協結成当時のことを書いてほしい」と編集部から頼まれ、約40年前のことで無理だと断りましたが、「是非」ということなので書いてみることにしました。
 全視協(全日本視覚障害者協議会 ―― 1997年に「視力」から「視覚」に改名)は1967年5月14日(日)に大阪に於いて全国1都2府7県から57名の代表が参加して結成大会が開かれました。
 高知からは塩見哲生、塩見(西森)広子、 
正岡光雄、片岡慈仲、私の5名で、当日の開会時間10時に少し遅れて駆け込むと、受付で「高知の参加者は6名ですね」と言われ、「5名で来たのに?」と不思議に思っていると、「蓮井邦子さんという方も参加登録されています」とのこと。「そんな人、高知にはいないがなあ」と思いましたが、それは後に正岡現全視協会長の奥様になられる方だったのです。
 拍手に迎えられ席に着き、夜汽車の疲れで眠くなりついうとうとした時、「高知の方のごあいさつを」と言われ、びっくりしながら前に行き「本日は大会おめでとうございます。私たちも皆さんと力を合わせて頑張っていきたいと思います。よろしくお願いいたします」というようなことを喋ったとは思いますが、高知の「守る会」のことをどの程度話したかなどはっきりとは覚えていません。
 各組織のあいさつに続いて規約の審議に 入りましたが、特に議論が白熱したのは次の2点でした。
 1つは組織の名前についてで、準備委員会提案の「全日本視力障害者協議会」に対して既に自分たちの組織に「民主」という文字を 
入れている福岡や愛媛など5つぐらいの 組織から強硬に「この新しい組織には民主という文字を是非入れるべきだ」という発言があり、準備委員会との間で熱いやり取りがありましたが、結局、「より幅広い人々を迎え入れるために原案通りでいこう」ということに落ち着きました。
 もう1つは「点字民報」を全視協の機関紙として位置付けるかどうかの問題です。  準備委員会提案では「機関紙的なもの」という表現ではっきり「機関紙」とは規約に書かないということでしたので、かなり多くの組織から「この全視協が結成に至ったのは点字民報の各地の読者の集まりが基礎となっているのに、なぜ統一の機関紙にしないのか」という強い反論が出ました。高知も機関紙にはっきり位置付けてほしいことを発言しました。このことは結局時間不足で決着が付かず、検討課題とされました。そして現在のように正式に機関紙となったのは、2003年秋札幌での全視協大会で決定され、翌
2004年1月からです。
 続いて46項目の当面の要求など活動方針を採択し、点字民報の生みの親とも言うべき西岡夫妻に感謝状と記念品を贈り、大会宣言を発表し、全員が「団結頑張ろう!」を三唱して歴史的な結成大会の幕を閉じました。

「みちしるべ」の名付け親は私です


             井上 芳史
 「みちしるべ」の200号突破おめでとうございます。年に約6回発行ということは
33年ほど前から発行されていることになりますね。
 私は1981年に高知盲に就職しました。その頃は小沢先生が原紙に手書きし、職場で印刷をされていました。仕事以外のことなので人目を気にしながらこっそりと行い、とても大変だったと思います。
 82年に、スモン裁判(整腸剤を飲み、足に異常感覚が出現した薬害裁判)による和解金の一部を「高知スモンの会」は守る会に寄付してくれました。その寄付金で印刷機を買い、盲ろう福祉会館に置かしてもらい、会報の印刷を行うようになりました。ちょうど、編集部長が小松俊子さんから大原保子さんに変わり、大原さんのお母さんも手伝いに来ていただき、みんなで印刷作業を行いました。その頃、会報はまだ手書きで徳永さんに墨字を書いてもらっていました。弱視の方に見やすいように大きく角張った文字を方眼紙に書いてくれていました。点字版と墨字版の会報を同じ時期に発行するために墨訳は大変なご苦労があったと思います。その印刷機は「全視協青学交流平和キャンプ」や「全視協西ブロック交流集会」など資料の印刷で大活躍しました。
 墨字の会報はAOK(パソコンの音声ワープロソフト)の開発、普及により、手書きの会報からプリンター印刷による文字へと変わっていきました。
 現在、守る会は印刷所を持ち、数年前に購入した最新の印刷機で「視覚障害者の就労」や「重度障害児の就学」問題など多くの情報を発信することができるようになりました。
 82年の会報32号までは「守る会会報」という表紙で発行され、まだ名前は付けられていませんでした。その年に会報の名前を募集したところ、「本流」「仲間」「みちしるべ」の3候補があがり、同年の忘年会で検討されました。飲み会の席で選考するとはやはり、守る会らしいと思います。私が「みちしるべ」で応募したのは「守る会運動の方向を指し示す会報であってほしい」という希望があったからです。
 私たちが安心して暮らせる社会の方向を指し示す会報になるよう、読者の方々に投稿していただき、面白くためになる「みちしるべ」になってほしいと思います。

高知県民気質(かたぎ)


           東京・東郷 進
2008年の夏、福井県の芦原温泉を訪れる機会があった。
全国理療教育研究会の教育研究大会である。その日、全員で夜の町を散策した。都合よく、芦原の町は夏祭りの最中であり、駅前の空き地には舞台や夜店が所狭しと並んでいる。我々は、人混みを避けて、屋台村通りのおでん屋で足を止めた。威勢のいいばあさんのかけ声が響く。「あんた、高知の人やろが」と私が言うと、「なんでわかるんか」という。店を始めて20年、客に高知県人と見抜かれたのはあんたが2人目だとばあさんは言った。
私は、似たような店が高知にもあると思い出した。別役さんの店である。この店は、民主酒場といい、世の中を少しでも良くしようという人たちの店であるが、経営方針は、君主制である。客はばあさんの臣下であり、命令一つで店員にも何にでもなる。水割りは水道の水をジャー。気に入らない客には、ばあさんの菜箸が容赦なく飛ぶ。勘定も、ばあさんの気分次第である。こんな店に客がとぎれないのは、議論付きで陽気な高知県人の気質にある。
1988年に、あん摩マッサージ指圧師はり師きゅう師等に関する法律の改正が行われた。学校・養成施設の入学資格を高等学校に入学できるものに引き上げ、免許権者の試験の実施者を厚生大臣とするものであり、資質向上の大改正と称された。
この点で関係者の異論は少なかったが、盲・業界を2分する大議論となったのが、登録事務と試験事務を財団法人に行わせようとする厚生省の企みであった。資質向上の観点から、盲・業界はこぞってこれを推進する立場をとったが、一人全日本視力障害者協議会(全視協)は、正論を掲げてこれに真っ向から対抗した。高知県内では、高知県視力障害者の生活と権利を守る会が、反対運動の先鋒に立った。
関係盲・業界は、財団設立の3億円を会員から集めるために、「金を出さないと免許が取り消される」「金を出したら保険取り扱いが良くなる」などとデマを流し、脅しをかけたのである。「厚生大臣の免許証が出る」というデマには、高知盲の有光先生が猛烈に怒った。それは、財団の長が出す免許証明書で
はないかというのである。県内はおろか、四国の業界の集まりに出かけて大演説をしたらしい。
その最中に、推進派の座長であった全日本鍼灸マッサージ師会の会長と全視協を対決させ、会員の前で白黒つけようではないかという企画が盛り上がり、全視協側から私が呼ばれたが、師会副会長の計らいで正面衝突は免れた。ガチンコ勝負を好む高知の方には拍子抜けだったに違いない。集会の後、有光先生は、師会副会長の慰労のため夜の街に消えた。どこに行ったか誰も知らない。
2006年の秋、法人改革の議論の最中であった。財団(東洋療法試験財団)から登録事務・試験事務を引き払い、厚生大臣が直接行うと国が言い出し、突然、関係盲・業団体が呼び出された。私は日本理療科教員連盟の法政部長としてその場にいた。医事課長曰く。「あん摩マッサージ指圧師はり師きゅう師の登録・試験事務は、人の健康に関わる医療の仕事であり、民間団体が行うのは相応しくない」。さすがの私もこれには唖然としたが、いみじくも厚生省の役人の口から、全視協や高知の方の道義的優位性を証明する形となったのである。
25年間で、高知には色々と出かけることが多かった。前述の教育研究大会も2度高知で開かれているし、各種学習会にもお呼びいただいた。圧巻は、2007年に守る会・業界・同窓会・盲人会合同で開いた無免許者取り締まりの諸行動に呼ばれた時である。土曜日の夜は幹部向け学習会、その後歓迎会、翌
日の日曜日は、講演会と街頭ビラ配布、夜はご苦労さん会、月曜日は県・県警との交渉があり、その夜は、有光先生、片岡慈仲さん、浜口誠一さんに、魚介づくしのもてなしをしていただいた。高知の方々とつきあえるうちは、まだ第一線だと思っている。
高知には魅力的な人が多い。田所会長宅に伺った折、カラオケバーがあるのには驚いた。旦那様はプロ顔負けの司会、美人で愛嬌の良い奥さんがホステス役ではたまらない。正岡光雄さんは若い女性が側にいれば機嫌がいい。全視協の現会長であるが、そのあいさつの半分は高知の自慢話で参加者をあきれさせている。片岡慈仲さんは、国際色豊かな人道派であり、しばしば私と共感することが多かった。浜口誠一さんは、彼が東京にいた頃から、酒を飲み歌い闘った仲間である。狸を飼っていたという松田さん、鍼名人の塩見さんなど、思い出の人を挙げれば枚挙にいとまがない。
守る会も、20数年前解体が噂された時期があったという。それを再生させるきっかけになったのが若い井上夫妻であった。赴任したばかりの2人を受け止め、存分に活躍の道を与えてくれたのは、会創立以来の先輩方であった。高知を訪れた時、組合の集会の舞台前に1人仁王立ちになっている芳史さんを見たことがある。芳史さんは剽軽な場面が目立つが、芯の強い熱血漢である。それから
20数年経ったが、守る会は衰えていない。高知県視力障害者の生活と権利を守る会は、自らが自らを守る自衛団である。正論を掲げ、運動を起こし、世論を変え、制度を作り、歴史を拓く。ついこの間も、吉岡●●君を擁して、高知県に点字採用試験の道を開かせたばかりである。なめたらあかんぜよ!

生誕200年に思う ―― ルイ・ブライユ点字の21世紀的展開


         東京・長谷川 貞夫
私は74歳の視覚障害者ですが、今年に体表点字を応用し、世界で初めて盲ろう者との電話の実用実験をしています。この研究は、六点漢字体系によるコンピューター利用の延長と考えています。
六点漢字体系の開発は、ブライユ点字を数千字の漢字へ適応させるための拡張方法でした。体表点字は、ブライユ点字の新しい表示方法です。点字を指だけで読むというのは全くの先入観で、全身の体表で読むことができます。電磁波の光が眼球の網膜の視細胞で読めるように、通信電波の電磁波が、皮膚の触覚細胞で読めるのです。
2009年1月4日は、「点字発明者」ルイ・ブライユ生誕200年の日です。彼が
15歳の1825年の発明により、世界の視覚障害者がどれほど生活のあらゆる面で助かってきたでしょうか。しかし、その発明者が生きている間は、この点字が視覚障害者の文字として認められていなかったのです。何と悲劇的なことでしょうか。
以下、私が20歳の昭和30年から約半世紀にわたる点字との関わりについて述べさせていただきます。
私は、16歳の時からの点字使用の中途失明者ですが、点字の発明にこの上なく感謝しています。ただ、その点字も、制度や科学技術においてその時代の人が、その時代に合わせた利用や改良を行わなければならないと思っています。
その時代の制度に合わせた利用については、私は、昭和30年の20歳の時に盲学校の生徒として、「全点協運動」(全国点字教科書問題改善促進協議会)を起こして、昭和
31年(1956年から盲学校高等部の全科目の点字教科書が発行されるようになり、また点字教科書が無料となりました。しかし、私は、その運動のために盲学校の校長から、就職を3件も拒否されました。
科学技術については、点字式のキーで、漢字を含む日本語を入力する方法を発明しました。昭和49年に大型コンピューターで基礎実験を行い、昭和56年にパソコンでの日本語ワープロの第1号機を作りました。翌昭和57年に岐阜市で開かれた全国盲学校教育研究大会でその点字キーによる日本語ワープロの研究発表を行いました。その時に知り合った高知盲学校の有光勲先生がこのワープロ第1号機を高知盲学校教育に取り入れて下さいました。そのことがご縁で、視覚障害者ワープロが高知盲学校を中心に研究と開発が進みました。そして、今日の高知システム開発へとつながりました。ですから、私は、高知システム開発とは深いご縁があり
ます。
点字式のキーで漢字を含む点字を入力するには、点字の漢字体系を作らなければなりませんでした。それが「六点漢字体系」でした。しかし、今は漢字などへの変換ソフトが充実しましたから、六点漢字を無理に覚えなくてもそれでよいと思っています。ただ、6点キーによる入力方式が残っていますから、変換方式を使うとしても、これが高齢の視覚障害者などのフルキー学習の負担を少なくしています。もちろん、高齢でもフルキーを使えれば、それはそれでよいことです。また、フルキーボード上での6点式キーの方法は、パソコン点訳で有効に使われています。
点字の改良について、「六点漢字体系」は、「ブライユ点字の拡張法」でした。まだ、JIS漢字の数千字きりコンピューターに載せていませんが、この延長として、漢字の全部の文字数に合わせた何万字でも作れる拡張性があります。その拡張された漢字は、すべて音読みができます。
「ブライユ点字の拡張性」の次に、「体表点字」という点字の表示方法の研究を行っています。点字は、紙や点字ディスプレイの上に面積で表現されています。そして指で読むものです。それは、まことに素晴らしい文字です。そして、それを、点字の1点を振動で表現するという方法で面積でなく、振動の時間で点字を表示するようにしました。
これまで、「点字は、指で読むもの」という先入観がありました。それが、もし、指を使わずに全身の体表で読めれば、指が解放されます。また、指を常に点字に触れていなくても、点字が電波で体に伝わってきます。光は電磁波ですが、それは眼球の視細胞を通して電磁波が体に伝わって来るのです。体表点字は、電波が、もちろん電磁波ですから光が眼球を通して情報が伝わって来るように、情報が体表の皮膚の触覚細胞から伝わって来るのです。
体表点字の応用として、まず、視覚・聴覚が不自由な盲ろう者のために「ヘレンケラーホン」を開発しました。このヘレンケラーホンは、サイトワールド2008において、約100人の前で公開の実演をしました。私が全く知らない人に携帯電話と補助装置を渡して、ドコモの電波を通しての振動による体表点字で点字の読みと書きを往復する実演を、ぶっつけ本番でいたしました。これなら、目も耳も不自由でも電話ができるのです。私は、このような方法で、実際に盲ろう者の家庭や職場と電話をしています。
体表点字は、6点式、4点式、3点式、2点式、1点式と研究して、いまの応用では2点式が便利です。これからは、点字の利用目的によってこれらの体表点字を使い分けることになります。
それから、応用は、情報について最も不自由な視覚・聴覚の二重障害者である盲ろう者のためのヘレンケラーホンから始めました。
その次に、視覚障害者には、GPSなどによる歩行の移動などを助けるいろいろな応用も考えています。また体表点字は、将来において、聴覚障害者、健常者も用いる新しい点字という文字になると考えています。19世紀の初めにブライユにより発明された点字は、21世紀に、また新しいエネルギーを得てとめどもなく展開いたします。

仲間ってすばらしい!! ―― みちしるべ200号に寄せて


      岐阜県恵那市・大上 俊子
             (初代編集長)
まずは、記念すべき200号、おめでとうございます。私もこうして元気でお祝いメッセージを送れること、とても嬉しく思います。
「ふるさとの香りとパワーと懐かしさ、わが子のように愛しくもあり」これが私のみちしるべに対する思いの全てです。ふるさとを離れて四半世紀、私とふるさとをつなぐ唯一の定期便、それがみちしるべなのです。その編集に関わっていたのは、30年近くも前のことで、もう会員の顔ぶれもかなり変わったようですね。新しい仲間が増え、全国に誇れる大きな運動に次々と取り組んでおられる様子がみちしるべを通して伝わってきて、本当に頼もしい限りです。
編集長時代に成しえたこと、それはそれまで不定期発行だったものを隔月発行に定着できたこと、そして、単に「会報」とだけ呼ばれていたこの機関誌に「みちしるべ」と言う名前がついたことです。編集会議では内容や原稿依頼など、頭を悩ませることも多かったのですが、会議後の雑談やティータイムはとても楽しいものでした。名前については、皆さんに考えていただき、中でも一際光っていた「みちしるべ」に決定。ちなみに命名者は井上芳史先生でした。僅か数年間の関わりでしかなかったのですが、現在に至るまで1号も欠かすことなく届いた定期便は私に懐かしさとパワーも一緒に届けてくれています。ときに懐かしいお名前に遭遇するとその時点で私の時間は止まってしまい、学生時代にタイムスリップ、思い出がどんどん膨らみついこの間のことのような気がするのに、それにしても随分年を重ねてきたものだと思わず感傷に浸ってしまうこの頃です。それと、立派に成長を遂げたわが子の晴れ姿をいとおしく見守る親の心境にも似た思いがあることも確かです。
みちしるべの素晴らしい所、それは書き手も話題も豊富なこと。言い換えればそれだけの活動がしっかりとできていると言うことですね。「1人の願いはみんなの願い」、活動の原点とも言えるその取り組みをされているのが皆さんです。当事者の吉岡さんを中心に取り組まれた公務員採用試験の点字受験を認めさせる運動は、短期間にもかかわらず、大きな成果を勝ち取りました。そして、音十愛さんの盲学校幼稚部への入学を認めさせる運動では、現実を受けとめ、音十愛さんを「我が家の天使」と呼びともに生きていきたいと綴られたお母さんの手記に心打たれました。この2つの取り組みでは、私も遠い岐阜から署名させていただきました。
私はこの機関誌に名前がついたとき、「民主運動のみちしるべになるように」との思いを込めて、編集長としてのコメントを書きました。それが現在に至るまでも、そしてこの先もずっと受け継がれ、発展し続けていくであろうことがとても嬉しいです。今度は
300号にお祝いメッセージを書くことを目標に頑張ります。皆さんもどうかお元気で、いつか高知に帰ることがありましたら、ぜひ美味しいお酒に誘って下さいね。

「みちしるべ」と私 ―― 古い墨字印刷機で作業に手間取った あの頃を偲んで ――


             大原 保子
            (2代目編集長)
 私が大上俊子さん、恒石彩子さんと一緒に編集部に入って最初に出されたのが、会報
18号でした。当時から隔月発行だったみちしるべが200号を迎えたのですから、あれから30年も経ったのですね。驚きです。彼女たち2人は家庭を持って2、3年で編集部を去っていきましたが、なぜか力不足の私が その後も長く編集部に残り、200号のうち半分くらいのみちしるべと関わることに なりました。ですので、思い出すことはいろいろありますが、ここでは墨字版印刷の思い出を中心に書いてみたいと思います。  
 その頃(1980年代の前半)、印刷機は盲ろう福祉会館に置かれていました。編集部内外の皆さんが仕事を終えて集まってくるのが7時半前後。まずはファックスの機械による原紙の焼き付け(機械のことはまるで分からないので、藤原さんに教えて貰いました)から始まるのですが、この作業は1枚 7、8分かかるのです。焼き付けの終わったものから輪転機にかけて印刷し、それを何人かで2つに折っていきます。次にそれを表紙から順にテーブルに並べ、1枚ずつ集め、ホッチキスで綴じて出来上がるのですが、全て終わるまでに3日はかかりました。機械が 古いこともあって、作業がスムーズに進まなかったり人の集まりが悪かったり、いつだったかは総会を次の日に控えてその議案書の印刷が間に合わないのではということもあったりで大変でした。それまでも印刷を手伝ってくれていた母がその様子を見て、時間のかかるファックスの作業を昼間のうちにしてくれることになり、印刷も1日か2日でできるようになって随分助かりました。  
 そしていつの頃だったか、印刷機が廃棄 処分されることになり、それまでのように みんなで集まって作業をすることもなくなりました。その後の記憶ははっきりしないのですが、1つだけ私の治療室に印刷した紙を届けて貰って母の目を借りながらみちしるべを作ったことを思い出しました。それがどのぐらいの期間だったかも定かではないのですが、治療ベッドいっぱいに紙を並べ1人で1枚1枚集めたあの頃のことが今となっては懐かしい思い出です。  
 今は守る会独自の印刷所もでき機械も新しくなって印刷そのものは速くなったようですが、その後の作業は私たちの頃と変わっていないので、点字版、墨字版合わせるとやはり3日はかかるとのこと、大変ですね。  
 現在みちしるべは点字版、墨字版、テープ版、そして私も時々覗いてみるのですがホームページでも見ることができます。会員の 皆様にはこのいずれかの方法で是非みちしるべをお読みいただきますよう、願って点筆を置くこととします。  

過去の「みちしるべ」に携載された 記事より(139号、99年5月、故・徳田 恵さん)


 「読者の声」欄から故徳田恵さんの記事をご紹介します。彼女は高校卒業後若年性糖尿病で失明し、人工透析を受けながら高知盲学校の保健理療科、専攻科へと進み、2005年3月に卒業しました。大変お気の毒なことですが、その年の11月23日脳血管疾患のため急逝されました。改めてご冥福をお祈りしますと共に、彼女の在りし日を偲びたいと思います。 

  森林浴に参加して 
              徳田 恵 
 平成11年4月29日、木曜日、晴れ。嬉 し楽しやピクニックというわけで、私は勇んで森林浴に出かけました。  
 寄宿舎から参加したのは、私とバングラデシュから来た青年(ロイ・ビッショジトさん)と清水から来たおんちゃんの3人。集合場所の県民文化ホール前に着き、バスでも3人一緒に座るのかなと思ったら、私とロイさんはダイエットよろしく軽量なためルーモ(ボランティアサークル)の江崎さんの車で連れて行かれるとのこと。女の私が軽いのは分かるが、男で女並みに若いロイさんって一体どういうスタイルをしているのだか…。毎度の ことながら9時出発のバスが少々遅れて出発。
 大正町に着くまで約3時間かかりました。予定では2時間半で着くはずだったのですが、途中で何度かラッシュにかかってしまったのです。祝日みどりの日、ピクニック日和。  考えることは皆一緒のようです。けれどその長い時間も苦痛ではありませんでした。一緒に車に乗ったメンバーの会話をぼうっとしながら聞いているそんなことも楽しいものですから。  
 大正町に到着し、緑生い茂る山林を歩いたのですが、はっきり言って非常に疲れました。もともと私の体力がないというのもありますが、私を誘導してくれたボランティアの方との身長(つまり脚の長さ)が違い過ぎたと いうのもありました。相手が1歩で歩くところを私は2歩歩くというような感じでしたので、結局途中でへばってしまい、移動車で目的の広場まで運んで貰いました。若い私でさえこうなのだから年配の人も途中でへばってるだろうなと思っていたら、何と皆さん余裕しゃくしゃくで笑いながら野道を歩いてらっしゃる!昔の人は強かった、みんな 山イノシシとお友達だったのかもしれないなんて思っているうちに広場に着きました。  
 朝高知市を出る時には少々冷たい風が吹いていたけど、大正ではそんな風もなく日陰に入ればちょうどという天気でした。鳥のさえずりは周りの情景になじみ、ちょっと手を伸ばして茣蓙(ござ)の外を触れば柔らかい草が触れられる。幡多郡ということもあってか、私は郷里の宿毛市を思い出したりしていました。  
 他の皆さんもいい気分に浸って…プラスアルコールでますます心地よい気分に浸ったみたいです。緑と鳥のさえずりをバックに飲むお酒は格別美味しかったのでしょうね。
 ルーモが用意してくれたお弁当とは別に、
鮎とアメゴの炉端焼きとお餅、イタドリの味噌ぬたを食べることができたのは久保田 さんのおかげです。魚もイタドリもご自分で 
折って来てくれ、お餅も久保田さんのお家から持って来てくれたものでした。私も他の 
50人余りのメンバーも、とても美味しく いただきました。それとお茶やお酒、食べ物を配ってくれた方々もご苦労様でした。  何しろ50人という大人数。注文を訊いたり配ったり引率したりでなかなか腰を落ち着かせることができなかったのではないでしょうか。
 返りの時、1人の飲みすけさんが行方不明になりかけるというハプニングがありましたが、私たちは無事全員バスと車に乗り込み高知市に帰りました。  
 帰途立ち寄ったサービスエリアで食べた 豆腐アイスクリームは美味しかったし、鮎最中が素晴らしく本物に近い形をしていたことに感動したりで楽しい帰り道となりました。私の隣の席ではロイさんがうとうとしています。
 「ああ疲れた、今夜はぐっすり寝るぞ」という人と、「夜はこれから飲みに行くぞ」とはりきっている人…。それぞれの思いを胸に秘めて今日1日の充実感を感じながら、私たちは現地に戻ってきました。  
 これからも楽しい行事がいろいろあると いいなと思っております。お世話して下さったボランティアの方々、ありがとうございました。

編集後記


              有光 勲
 点字印刷につきましては、昔ながらの1枚1枚原版に用紙を挟んでローラーに通すという作業に変わりはありません。しかし、原版の作成は自動製版機「ブレール・シャトル」の導入により、パソコンでデーターを作りさえすれば、だれでも簡単にできるようになりました。
 以前には、足踏み式の製版機で直接原版に点字を打ち込んでいました。これは操作に慣れる必要があり、専ら私が行っておりました。原版の校正にも大変な時間と労力を要したものです。そんなわけで、今の便利さがつくづくありがたく身にしみる今日この頃です。
 ところで、この度のみちしるべ200号記念誌の作成に当たり、原稿をお寄せいただきましてありがとうございました。おかげで無事発行にこぎつけることができました。「継続は力なり」とよく言われますが、今後もこの情報活動は続けていかなければなりません。もちろんそのためには、守る会の活動が伴ってのことです。
 この200号記念をステップに、また新たな気持ちで共に頑張っていきたいと思います。ご意見、ご感想など編集部までお寄せ 下さい。














みちしるべ200号記念誌 2008年12月発行



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