みちしるべ
No 219  2011年11月号

目次(文書内リンク)
「産みの苦しみ法人全視協」  井上 芳史
「手をつなごう要請行動」 ――就労問題と講演会――  井上 芳史
女性部代表者会議報告  大原 保子
個人認証事例報告に投稿「保険会社とのやりとり」  畠山 俊惠
医療施設めぐり第2弾 ――DPC、ストレスパティオ、ガンマナイフ、緩和ケア――  藤原 義朗
私の医療体験(6)  堀内 佳(シンガーソングライター)
東日本大震災での視覚障がい者の状況  片岡 慈仲
近況報告  田元 美紀
編集後記

「産みの苦しみ法人全視協」


             井上 芳史
 9月10、11日に一般社団法人全視協理事会(旧、全国委員会)と社員総会(旧、代議員総会)が行われました。欠席団体は北海道・青森・沖縄・女性部、理事代理は静岡・和歌山・愛媛でした。行務執行理事も含め
39分の32で理事会が成立している報告がありました。
 1.東日本大震災カンパ報告:募金総額は190万8041円集まり、1人当たり1万7千円程度を青森・岩手・宮城・福島・茨城の会員数で配分した。各社員(団体)からカンパのお礼と配分の報告がありました。岩手は5名の方、茨城は2名の方にお見舞いとして渡した。
 2.事務所について:事務所長の織田さんから報告がありました。危険個所や破損個所の工事、登記などで約50万かかったが予算内であった。
 3.全視協メーリングリストについて:理事会議案書では「報告事項」になっていますが、「協議事項」ではないかという点で議論されました。メールの中には個人を誹謗、ルール違反のメールなど「統一と団結」に支障を来たすおそれがあり、楽しみにされている方もおられますが、廃止とする。協議事項とする10名、報告事項とする20名で廃止となりました。高知としては協議事項で発言し、協議事項となれば新たな提案をする予定でした。賛成多数で決定するのは一般的ですが、提案者である行務執行理事も決議に加わるのは問題があると思います。参考に社員だけでみると協議9名、報告7名でした。
 4.会員拡大について:福岡では中途視覚障害の市の職員が入会、60才代の方が寂しく、仲間を求めて入会したなど報告がありました。青学部から一つ一つの行事を大切にし成功させると発言がありました。行務執行理事の中に組織対策担当者をおいてほしいとの意見に対し検討すると回答があった。
 5.点字民報について:メール版が遅い、特に7月号は8月の中旬に届いた。会員も購読料を払って購読をしており、改善してほしい。7月、8月は事務所引っ越しのためにメールが出来なかった。
 6.定款細則の役員選出規定にについて:行務執行理事、監事が定数内の立候補者であれば投票を行わないという提案に対し、信任投票をする必要があるのではないか。信任投票をする6名で投票をしない原案が可決されました。
 7.社員総会について:社員からの参加
18名、委任2名、議決権行使書面33名(うち、高知守る会は3名)で総会は成立しました。経過報告、社員の資格取得、事業年度の事業計画、定款の変更(事務所住所など)の4点が承認されました。
 次回の理事会は2012年5月12日・13日、手をつなごう要請行動は14日実施で承認されました。

「手をつなごう要請行動」――就労問題と講演会――


             井上 芳史
 9月12日に手をつなごう要請行動と講演会が行なわれました。
 1.就労障害者雇用対策課と交渉しました。22年度の視覚障害者の雇用件数は1961件(前年度より6.9%増)、職種別ではあはき師が60.6%でそのうち、医療機関10.6%・施術院44.9%・ヘルスキーパー3.4%・機能訓練指導員1.3%・理学療法士1.3%・ケアマネ0.5%・情報処理技術者0.1%である。最近、急増している在宅訪問マッサージは施術院でカウントされており、医療保険を使って行う業務で、別の項目にした方が良い。在宅訪問マッサージ師は食事や休憩は車で過ごし、トイレはコンビニなどですませる。在宅に行き患者さんが今日はマッサージはいらないと断られると車がくるまで玄関で待っているなど劣悪な実態が報告されました。
 病院マッサージ診療報酬は30年前から現状のままであり引き上げを求めました。学術的な学会から800件ほど意見があり、その意見を検討していくが、マッサージについて整形外科学会からは意見がないので検討する予定はない。患者さんからの声や署名、要請行動は意見としては取り上げる余裕がない。
 2.視覚障害者の金融機関利用に関する制度:金融庁監督局の方を講師に講演がありました。22年に全視協からの「視覚障害者が使いやすい金融機関」を求める請願署名がきっかけとなり、23年に監督指針を見直した。視覚障害者が単独で利用する時には一般の方と同等の利用が出来るようにしなくてはならない。
 代筆・代読:自筆困難者の代理人は家族とみなすが、大金や定期の解約などはその限りではない。行員が代筆する場合は複数で対応する。代筆を認めたが、金融機関には説明責任があり、理解出来ない商品を契約してはならない。
 視覚障害者が使えるATM並びに拡大やコントラスト・タッチパネルでないATMを配置し、店舗入り口からATMまで点字ブロックや行員を配置する。道路から店舗までの点字ブロックを延ばしてほしい。要望は各銀行に個別に相談してほしい。
 お困りのことがあれば各金融機関のお客様相談窓口に電話をかけてほしい。苦情相談を受けた場合その対応を検討することになっている。
 なお、金融庁の金融サービス利用者相談室の電話番号は03−5251−6811におかけください。受付時間は平日10時から16時です。

女性部代表者会議報告


             大原 保子
 8月27(土)28日(日)に横浜市のあゆみ荘で女性部の代表者会議が行われ畠山さんと二人で参加しました。
 会議に先立ち「医療現場での同意書におけるサインについて」をテーマに学習会が持たれました。講師は茅ヶ崎徳州会総合病院医療ソーシャルワーカーの加来三奈さん。「視覚障害者の方が同意書のサインで困っていることを始めて知りました。そこで改めて病院の中を振返ってみるとCT、MRIなど紙や画像が大変多いことを痛感しました。今日は皆さんがどういうことで困っているのか逆に教えていただきたいと思います」と話されました。
 続いてのレポート発表では、視覚障害者本人の手術や治療の際、同意書に自筆のサインを求められ、書けないことを説明しても全く理解してもらえず大変だった。母親の入院のさい、弱っている本人に無理やり書いてもらうしかなかったなどの話が紹介されました。私自身も家族の入院や手術で同意書にサインを求められたことは在りますが、その都度付き添ってくれた知人に代筆してもらいなんの問題も感じていなかったのでレポートには少なからずショックを受けました。病院側にも事情は在るのでしょうが、サイン出来ない私たちのことも理解してほしいと強く思いました。
 代表者会議には11組織から22名が参加しました。
 全視協の法人化に伴う女性部の位置付けについて…一般社団法人全視協の活動は始まったばかりですが、女性部の位置付けに関わるいくつかの問題が起こっています。
 法人化以前の全視協での女性部の位置付けは専門部の一員として旧代議員総会で2議席・旧全国委員会でも1議席の代表枠を持ち、会全体の論議に加わり女性部の意見や活動を会員に知らせ協力を得ることが出来ました。
 法人化された今の一番の問題はこれまでの代議員総会から引き継がれた社員総会で専門部の議席が無くなったことです。社員と専門部の二重登録になるからというのが外された大きな理由です。全国委員会を引き継いだ全国理事会では専門部担当理事として席が在るのですが、広く女性部の存在や活動を知らせ協力を求めていくという点で全視協の最高議決機関である社員総会に席が無くなったことは女性部活動にとって大きな損失といえます。
 これに対する打開策としては、たとえば業務執行理事会に専門部担当理事として加わる、社員総会に復帰を求めるなどが考えられますが、他にも方法はないか各組織で論議し、その結果を来年1月末までに文書で大上部長まで届けることになりました。
 大変難しい問題ですが私たちも近いうちに話し合いましょう。
 今後の女性部大会の持ち方について…会員の高齢化や資金難・ボランティアの確保など厳しい状況があります。「近県の組織が共催で開催しては」「会議と交流会を分けて行うようにしては」「暑い8月から開催時期を変更しては」などの意見が出されました。また役員からはまだ充分時間も在るのでそれぞれの組織が自分たちの組織らしい大会の持ち方を考えてみてほしいと提案されました。
 第17回女性部東京大会…2012年8月25(土)、26日(日)に富山サンライズで行われます。参加費は16,000円です。
 4つの分科会と担当組織は(1)高齢問題(奈良)(2)労働(福岡・高知)(3)生活(大阪)(4)気軽に参加(埼玉・神奈川)となっております。
 物品販売にご協力を…活動の財政基盤を支えるために次の3品目の販売を行います。
 1 鰹煎餅 ビールのおつまみやおやつにどうぞ。1袋600円
 2 海苔 福岡大会でおなじみの各種味付け海苔や味噌汁のグヲ女性部で販売することになりました。何れも550円
 3 柿の種 ボトル入りで1個600円 わさび・カレー・サラダ・梅など種類も豊富です。
ご協力よろしくお願いいたします。

個人認証事例報告に投稿「保険会社とのやりとり」


畠山 俊惠
 8月に行われた全視協女性部の代表者会議では、同意書など医療期間での、サイン(自筆)について学習した。
 様々な場面で自筆のサインを求められ、書けないと何度言っても分かってもらえず、本当に困ったという事例がいくつか紹介された。
 この「サイン問題」に関連して、9年ほど前に私が体験した保険会社とのやりとりを書いてみます。

 当時私は、ファミリータイプの癌保険に加入していた。
 2人の娘が嫁いで少したったころ、主人と離婚をし、事実上ファミリーではなくなったので、それまでかけていたファミリータイプの癌保険を解約することにした。
 その手続きにはもちろん自筆のサインが必要だった。全盲の私は代理でサインをしてもらうしかない。「代理サインは身内の方にしてもらってください。」と言われたので、子供を連れて時々実家に遊びに来ていた次女にサインをしてもらうことにした。
 ところが、一緒に暮らしている子供なら特に問題もなかったが、嫁いで名字が変わっていたので、私と本当の親子であるという証明が必要だと言われた。
 私は市役所に行き、戸籍抄本を取った。しかし、それには嫁いだ娘のことは書かれていなかった。
 娘の方が戸籍抄本を取れば、親が誰であるか書いてあるとのこと。あれやこれやと説明の電話を娘に何度もかけた。
 当時19歳だった次女は、まだ実印を作っていなかったので、そこから始めなければならなかった。そして戸籍抄本を取ってもらい、やっとのことで代理サインにこぎ着けた。
 目が見えて、その場でサインができたなら一週間ほどで受け取れるはずの保険解約金が、手続きを始めてから約一月ほどかかった。
 自分が契約して自分がかけていた保険なのに、何でこんな余分な労力を使わなければいけないのだろうと、本当に情けないやら腹立たしいやら…。
 何もサインは身内に限らず、本人が目の前にいて、「本人が書いてほしい」とお願いすれば、保険会社の方2人立ち会いの下に書いてもらえるようになったら、どんなに助かるかしれない。
 契約の時には、確か会社の同僚に書いてもらったような記憶がある。
 それというのも、「毒入りカレー事件」など、保険を悪用した様々な事件が起きたりしたことで、色々難しくなったということだった。
 「個人で入れる癌保険もあるので、ぜひまた入ってくださいね。」と言われたが、コピー一つにしても人の手を借りなければいけないのに、もうこんな気苦労はこりごりだと思い、その後その会社とは契約していない。

医療施設めぐり第2弾


  ――DPC、ストレスパティオ、
ガンマナイフ、緩和ケア――
             藤原 義朗
 今年度2回目の医療施設バスめぐりが、9月15日に行われた。参加者は8名。今回は、近森病院ともみのき病院の見学である。
 まず、近森病院については資料を用意していただいたので、そのまま報告文とさせていただきます。

  1.近森病院
 平成23年9月15日
 社会医療法人近森会 近森病院
 診療情報管理室
  *DPCについて
 「DPC」とは、Diagnosis(診断) Procedure(手技) Combination(組み合わせ)の略語で、本来は診断群(傷病名)の分類を意味しますが、一般的に医療現場で用いる際のDPCは、入院患者さんの病名や症状および手術・処置等の治療行為の有無に応じて、厚生労働省により定められた診断群分類点数をもとに、1日当たりの定額の医療費を基本として入院費の計算を行う「包括支払制度」のことを言います。
 従来の入院費は投薬・処置・検査などの治療行為を積み上げて合計する「出来高払い方式」でしたが、DPCでは患者さんの病名から診断群分類1日当たりの点数に入院日数を乗じて計算する包括評価部分に、従来どおりの出来高評価で計算される医師の専門的な技術を必要とする手術・リハビリテーション・内視鏡検査等の費用を組み合わせて入院費を計算します。また、DPCの対象となるのは急性期病院の一般病棟入院患者であり、外来患者や労災・交通事故・自費診療についてはDPC対象外となっているため、これまでどおり出来高払い方式となります。
 このDPCという新しい制度は、平成15年度から82の大学病院や国立病院などの高度先進医療を行っている特定機能病院に導入され、当院においても厚生労働省のDPCに関する調査に2年間協力し、一定の基準を満たした病院として平成18年4月1日よりDPC制度を導入しています。平成23年4月1日現在でDPC対象病院は合計
1,449病院、ベッド数は約47万床となり、全一般病床約90万床に占める割合は5割強となっています。
 DPC導入病院においては、電子化された共通のフォーマットで診断群分類ごとの臨床データを厚生労働省に提出することが義務づけられています。このデータには患者さん毎に主傷病名や症状、手術術式・投薬・注射・処置・検査などの詳細な診療情報が含まれており、患者名やID番号を匿名化したデータが厚生労働省より開示されています。このデータを分析・活用し疾患毎の治療や手術内容について他病院と比較検討することで、診療プロセスの改善、経営効率化に繋げるための取り組みが可能となっています。さらに、こうしたデータの活用が全国の急性期病院で行われることにより、医療の標準化・質の向上・医療費の抑制につながっています。
 高知県では近年、急速に高齢化が進んでいます。高齢者は、持病である併存疾患を有することが多く、手術後の合併症が生じる可能性も高い。また、回復力が十分でないため、治癒に時間がかかり入院日数が延長することが多い。入院日数の経過とともに段階的に定額の入院料が下がっていくDPC制度下では同じ診断であれば、年齢に関係なく診療報酬は同じであるが、高齢者ではコストがかかり、看護必要度も高くなる。都会に比べて、地方では高齢化が進んでおり、地方における医療ではコスト高になることが今後の課題となっています。
  *近森病院第二分院について
  院長あいさつ
 近森病院第二分院は、「患者さんがその人らしさを失うことなく、社会の中でこころ豊かに前向きに生きていけるよう全力で努力します」の理念のもと、患者さんが1日も早く、住み慣れた場所で、その人らしい生活ができるよう、入院期間を出来るだけ短くし、外来で支えていこうと努力しています。そのため、第二分院の外来・デイケア・病棟と併設する高知メンタルリハビリテーションセンター(地域生活支援センター・援護寮・訪問看護ステーション・デイケア)など各部門や各職種のスタッフと互いに協力しチーム医療を行っています。
 平成15年10月には、病院を新築し、明るく、静かで清潔でバリアフリーにも配慮した療養環境を提供できるようになりました。急性期閉鎖・ストレスケア病棟には個室を
18室設け、より状態に応じた治療が可能となり、現在、社会で問題になっているストレス疾患にも対応できるようになりました。今後更にハード面ソフト面ともに充実した医療を提供していきたいと思っています。

  *デイケア(パティオ)
 ストレスで休職している方を対象として、就労に向けてのリハビリテーションを行っています。
 復職・再就職を目標に活動をあげていくことや問題解決トレーニングを行っています。
 また、復職の際には職場調整も行っています。
 自分らしく元気になっていくためにも様々なプログラムを提供していますが、プログラムの要素として
 1.生活・就労に向けての体力作り。
 2.今、眠っている脳に刺激(考える力)を与えていく。
 3.気力・根気強さを徐々に取り戻していく。
 4.時間感覚を取り戻していく。
 5.自分の考え方・行動パターンを振り返り、新たなスキルを身につけることにより、考え方・行動の選択肢を増やしていく。必要時には、復職のための職場調整も行っていきます。
 急性期には十分な休養と精神療法・薬物療法が必要不可欠ですが、いつまでも休養していては社会復帰が遠くなるばかりです。
 気持ちとしては、自分に対する苛立ちや焦りばかりが出て職場の敷居が高く感じられます。
 人は太陽の光を浴びることや人と話すことで元気になっていきます。悩んでいても行動に移さない限り状況は変わらないので思い切ってご相談下さい。

  2.もみのき病院
 近森病院の見学を終え、太陽号は高知市塚ノ原のもみのき病院に到着した。


  @ガンマナイフ
 地下階へ案内されると、エコー、MRI、レントゲンなどあり、ガンマナイフの部屋には靴を脱いで入室した。
 ガンマ線とは、放射線の中で非常に短い波長を3次元的に当て、病巣を観察でき、照射することにより治療できるものである。特に、脳腫瘍を焼くのに効果がある。脳の奥を外科的に切り開くのは、後遺症も残るが、これにより奥の治療もできるというものである。
 患者さんが金属製のザルのようなフレームをかぶり、200個のナイフ治療を受けておられた。病巣によるが30分くらい、短い人は10分かかっているそうだ。ヒノキ作りの部屋で、洋風音楽の中、検査治療が進められていた。
 部屋を会議室に移し、あのガンマナイフで有名な森木先生と50分近くお話をする機会を得た。
 ○ガンマナイフの値段(定価)は数億円するそうである。今は保険がきいて治療を受けやすくなった。
 ○機械は、スウェーデン製で、日本に
約50台、四国に2台ある。
 ○森木先生と脳神経疾患と治療の話をする上で、やはり健診が必要なこと、何よりも食養生が大事なことがわかった。脳ドックのフルコースは最高5万円くらい。スタンダードコースは2万円くらいで、半日でできるそうだ。ちゃんと、もの忘れテストもしていただける。認知症は、最初から精神科には行かない人が多い。このような脳神経科の病院を上手に利用して早く検査、治療していくことが必要である。

  A緩和ケア
 ○この病院には、緩和ケア病棟がある。ベッド数は12床。家族の人もついておられるようキッチンなど対応出来ている。
 特に痛みについて、薬物、運動療法が行われている。やはり看護師の体制も一般病棟より厚くしてある。患者さんの、そして、家族の気持ちを大切にしていることを感じた。

  3.
 このように、昨年度から福祉施設めぐりを4回、今年度医療施設めぐりを2回行ってきた。医療技術も、進んできている。医療制度もすさまじいスピードで変化し、診療体制も変わってきている。介護施設も、制度の変遷により、新たな施設ができてきている。
 私たちも、流れをしっかりつかみ、上手に利用していきたい。

私の医療体験(6)


       堀内 佳
(シンガーソングライター)
 お陰様で、今年も無事繁忙の秋を迎えることができた。
 4年前まで、秋が巡ってくることなど極当たり前のことで特別な感慨も無かったのだが、あの体験以来、日々の明け暮れや四季の変化など、いろいろな事象に深い意味を感じるようになった。

 07年7月30日。唯々厳しかった父親が76年の人生を閉じた。多臓器不全でほとんど意識が無く、チェーンストークス呼吸(交代性無呼吸)を繰り返すばかりの父の病床に、私は母と共にできる限り寄り添った。
 そして1ヶ月ほど経ったある日、どうにも込み上げるものを押さえられず、父の手を握りしめて号泣しながら言った。「おとうちゃん、目の見えん子供が生まれて辛かったやろう?口惜しい思いもしたやろう?けど僕は、おとうちゃんの息子でほんまによかったと思うちゅう。これから、おとうちゃんがどんなになっても僕はおとうちゃんが誇りやき」「あんた、佳がこんなに言うてくれてよかったね」という母の言葉に、1ヶ月間意識の無い父が、はっきりした大きな声で「おー…よかった」と答えた。それが父との最期の会話となった。その夜父は静かに息を引き取った。

 それからは、平田の実家で一人暮らしとなった母に寂しい思いをさせないようにと、できるだけ時間を作って帰郷した。そんな息子のために、母はタンスの引き出しを無理矢理一つ開けて待っていてくれた。しかし、優しく穏やかな日々は1年しか続かなかった。

 08年7月28日。唯々優しかった母親が、脳幹部動脈破断で73年の人生を閉じた。
 ヘリで緊急搬送された高知医療センターで、脳死状態とはいえ、子供や孫達が駆けつけて2泊し、そして帰って行くまでの8日間、母は必死に生きて、私たち家族に計り知れないほどの様々なことを伝え残してくれた。

 そして、それから1ヶ月。今度は私自身の身体に変調が表れた。
 毎夜ベッドパッドが重くなるほど大量の寝汗をかき、日常的な激しい倦怠感と微熱が毎日続いた。
 更に9月に入ると、39℃を超える発熱と異常発汗に加え、激しい頭痛と、経験したことのない息苦しさに襲われるようになり、丁度その頃行われた3日連続のコンサートツアーでは、意識が遠のくような瞬間が何度もあった。

 9月8日、週明けを待って訪れた掛かり付け医から「このままだとほんとに死ぬよ!」と、印象的なほどの強い口調で叱られ、そのまま総合病院に緊急入院。
 血液検査の結果(SPO2=80以下、 LDH=2,000以上、血小板数=3万以下)等から、相当重篤な病気が疑われると告げられた。
 翌日急遽血液科の専門医が呼ばれ、胸骨に穴を空けて骨髄液採取を試みるも、骨髄の腫瘍化が進んでいて採取不可能、結局マルクは4ヶ所に及んだ。「堀内さん痛いですね」という医師の声と「大丈夫です…」と何度も答えていたことを微かに覚えている。翌日の記憶はほとんどないが、前日辛うじて採取されたサンプルの簡易検査から「骨髄性白血病」が疑われるということで、専用車両で医療センターへ緊急移送され、そのまま入院。そう、ほんの1ヶ月前、母を見送ったばかりの、あの医療センターだ。
 患者の緊急輸送と思われるヘリの音がする度に、「どうか助かってください」と嗚咽しながら手を合わせずにはいられなかった。
 そしてその日の内に腸骨に穴を開けるも、やはり骨髄液は採取できず、骨髄組織のサンプルを削り取って検査する「骨髄生検」と同時に、抗がん剤投与の準備として、右前腕部にリザーバー(胸の中心静脈に繋がる管)を埋設する手術を受けた。
 とりあえず1回目は、急性・難治性の白血病等に有効な「ハイパーC-bad」という多剤併用療法と血小板輸血を受けた。

 その後詳細な検査結果から正式に告知された病名は「び慢性大細胞型B細胞リンパ腫(ステージ4)」。四万十市から姉夫婦が呼ばれ、予断を許さない病状であることが告げられた(本人にも告知)。「ご本人にとって相当に重い心身へのストレスが要因になるという説もあります」という主治医の説明に、姉は泣き崩れた。

 この手の悪性腫瘍の場合、その予後を大きく左右するのが早期発見。しかし初期症状として出てくる発熱や頭痛、倦怠感などは「風邪をこじらせた」「少し無理をして疲れたんだろう」くらいに軽く考えてしまうことも多く、たとえ受診して血液検査値に異常があっても、表面的には組織病変が認められないため、病名を特定するのに時間がかかってしまう。
 ただ私の場合、幸いなことに早い段階でがん化した細胞を特定でき、最もポピュラーで効果的だとされている特効薬によるピンポイントの治療を受けることができた。

 入院して数日後には、高熱や激しい頭痛などの症状は治まったものの、ひどい倦怠感で長く身を起こしてはいられなかった。そしてそれからは、抗がん剤の副作用で体力や免疫力が低下するため、感染症などに注意しながら、かなり辛い症状と闘うことになる。
 骨盤の骨から骨髄を削り出したり、腰椎の骨と骨の間に太い針を刺し脊髄液を採取し、その後同量の薬剤を注入したり、腕から心臓近くまで通した管から24時間点滴をし、毎日断続的に抗がん剤などの薬剤を投与される日々。
 ただ、患者が納得した上で患者とともに治療を進める方針が貫かれているこの医療施設で治療を受けていると、日に日に変化する検査結果の値などを客観的に興味深く見ながら、旺盛な知的好奇心を満たされ、ある意味楽しんでいる自分もいた。
 そして全国から寄せられる多くの励ましのメールや、子供達が心を込めて折ってくれた千羽鶴なども、闘病の不安や恐怖を和らげてくれるとてもありがたい贈り物だった。

 入院して1ヶ月ほど経った頃、これまでの治療効果を測る判定検査があった。
 前回は骨盤の骨から削り取るしかなかった骨髄が容易に液体として採取でき、目視の段階でほぼ90%は腫瘍細胞を殲滅(せんめつ)できてるのでは、という見解だった。
 「こんな短期間の治療でこんな好結果が出るなんて……。堀内さんの今の状態は、ほぼ寛解と言ってもいいくらいですよ」主治医の声の表情から、本当に心の底から喜んでくれていることが伝わってきて、危うく涙が出そうになった。
 ただ、この病気の再発率は高く、5年後の生存率は50%とも言われる。再発防止のために、腫瘍細胞をできるだけ残らず叩いておく必要があるということで、従来から一般的に行われている療法に、B細胞に特異的に働く「リツキサン」を加えた「R-CHOP(アールチョップ)療法」を受けることになった。

 抗がん剤の副作用は、その現れ方にも程度にも大きな個人差があるようで、私の場合、後になるほどきつくなっていった。白血球数が300を切り、局所的に清浄な環境を作る「コンパクトクリーン」という装置に入らなければいけない日もあった。

 そしてその頃から、ついに脱毛が始まった。髪に指を通すと、驚くほど大量の毛髪が、ごっそりと指に絡まって抜け落ちる。もちろん脱毛など覚悟の上だし、そのこと自体さほど辛くはなかったが、日に日に露出していく頭皮と、枕の回りに大量に抜け落ちた毛髪を触るたびに、改めて自分が「悪性リンパ腫」という重病と向き合っていることを実感させられた。

 夕方から夜にかけて比較的元気だった日、主治医に一時帰宅を願い出た。なにしろ、あれよあれよという間の緊急入院だったため、いったい何をして何をし残しているかさえよく分からず、漠然とした不安や焦りの気持ちが大きく膨らんでいた。
 ところが、2日前の検査では白血球の値が3,000余りで踏みとどまっていて、主治医の判断も楽観的だったのだが、翌朝の採血では1,900台にまで下がっていて、「外出許可は微妙かもしれないですよ」と看護師の声も曇ってしまう始末。
 それでもなんとか白血球の増加を促す注射をした後、マスクの装着と人混みを避けることなどを条件に数時間の外出許可が出た。親しい友人たちにふらつく体を支えられながら、おぼつかない足取りで幾つかのドアをくぐり、しばらくぶりに院外に出ると、容赦なくシャワーのように降り注いでくる日差しや風、そして車や人混みの喧噪などに恐怖を感じ、危うく過呼吸になりかけた。今まで、こんな激しい刺激の中で平気で生きていたのか……。
 それでも、車の後部座席に座って安静を保つと少し落ち着き、昼過ぎに約1ヶ月ぶりのマンションに帰ることができた。ただ、駐車場から玄関までの徒歩移動で想像以上に体力を消耗し、部屋に入るとそのままベッドに倒れ込んでしまった。
 しかし、この先外出できる機会はそうそうないだろうと気持ちを奮い立たせ、限られた時間の中で必死に用事を片付けた。さすがに後の疲労度は尋常ではなかったが、当面処理すべきことは大まかには片づいたという安心感はとても大きかった。

 入院して3か月ほど経ったころから、薬の副作用や検査に伴う苦痛に嫌気がさすことも多くなってきた。治療の初期にはほとんど自覚しなかった副作用だったが、発熱や口内炎を始め、生まれて初めて薬が必要なほどの便秘や不眠等等、次々と現れた。手足がしびれ、点字もまともに読めない。とにかく、事前に言われていた症状をことごとく体験した。
 元々話し好きな私が、自分でも不思議なくらい人と言葉を交わすことに体力を消耗し、後で熱が出たりすることもあった。

 中でも辛かったのが、毎回抗がん剤の投与に伴って数日導入される大量のステロイド剤による心身の変動。投与直後から異様に心身が高揚し、その置き所がなくなった感じで、眠ることもできなくなる。時々自分の心身が分離して、上空からもう一人の自分を見下ろしているような感覚になり、何度もパニックになりそうな瞬間を経験した。
 そしてやっとその状態に慣れてきた頃に投与が中止されると、今度はリバウンドで、とんでもない倦怠感に襲われ、身体を動かすことさえ辛くなる。
 しかし治療効果は確実に上がっていて、
12月に入ると、「髄注」→「リツキサン投与」→「R-CHOP療法」を2泊3日の短期入院で行い、その後は自宅に帰ってステロイドなどの内服薬を飲むというサイクルになった。
 
 09年が明けて間もなく、緊急入院で中止になっていたコンサートを改めて行うことが決まった。発症して約4ヶ月。「歌を歌いながら闘病するなんて、かっこつけずに真剣に病気を治すことに専念すべきじゃないか」「力を発揮できないまま中途半端にステージに立ったり、レギュラー番組に穴を開けたりするのは無責任だし、命を縮めることにもなるから、十分に体力が回復してからするべきじゃないか」周囲からはいろいろな声が聞こえてきた。
 そんな時に救われるのは、やはり家族や身内の人たちの言葉だった。「少しでも周囲の人に迷惑をかけないように、少しでも自分を生きられるようにって、今までどれだけ頑張って勉強をしたり知識を得たりしてきたか分かってるから、あんた自身が選ぶ生き方を全力で応援するよ」ほんとにありがたかった。
 たとえ数年間、完全休養して闘病したとしても、それで今より絶対に良くなるという保証など誰もできない。最悪、再発した時のことを想像してみると、セーブしてその時を迎えるのと、とにかく全力で生きてその時を迎えるのとでは、後者の方が絶対に後悔しないはず。
 それなら、再発のリスクを極力排除しながら、今しか生きられない今を精いっぱい輝いて生きることを追求することがベストだと思うし、現に今も必死にそうしているつもり。
 
 レギュラー番組を休んでいた時、先輩パーソナリティーの方々が穴を埋めてくださったこと。依頼されていた土佐市制50周年記念の歌が、発表イベントに間に合わなくなったとき、「別の人に依頼しては」という大方の意見を、「歌を作ることが彼の闘病の励みになるかもしれないから、このまま待とう」と、市長が押し切ってくださったこと。
 「しびれた指でギターを弾き、完全でない声で必死に歌ってくれた堀内さんの姿に、生きる力をもらいました」という中学生からのメールを貰ったこと、「共演できる日を待ってるよ」と言い続けてくれるミュージシャン仲間がいること、そんな諸々のことに感謝の思いを向けるにつけ、自分が向かってる方向が間違ってないんだと、改めて自分に言い聞かせてコンサートに臨んだ。

 偉そうなようだが「人生にマイナスの経験など絶対に無い」というのが私の持論。語弊を恐れずに言わせていただくなら、どれだけ自身が傷ついたことでも、またどれだけ他人を傷つけたことであっても、その経験をプラスにするのもマイナスにするのも、その後の自分次第だと私は思っている。
 もちろん、あのタイミングで相次いで両親を亡くし、その後血液のがんと呼ばれる悪性リンパ腫で闘病した経験も、プラスの経験として生かしていくことが、こうして今を確かに生きている私にならできるし、またそうしていかなければいけないと強く思う。
 思えば、一連の体験を通して自身の中で最も変わったことは、「ありがとう」とか「ごめんなさい」などの言葉が、今までより遥かに心の深い所から出るようになったこと。そんなことも含め、この経験をコンサートやラジオ等で多くの人に伝え、それが少しでも誰かの参考になれば、こんな嬉しいことはない。

 お陰様で、今年も無事繁忙の秋を迎えることができた。今は1ヶ月に1回の定期受診と、半年に1回のPET-CT検査を受けながら、元気に各地で歌わせてもらっている。
 5年後の生存率が50%なんて、「俺が生きることで僅かでもその値を上げてやる」というくらいの強い気持ちで、これからも元気に謙虚に生きていきたいと思っている。

東日本大震災での視覚障がい者の状況


             片岡 慈仲
 マグニチュード8以上の大規模な「南海地震」が確実に迫っている中、私たちは去る
9月23日高知県立盲学校で、日本盲人福祉委員会(日盲委)東日本大震災視覚障害者支援対策本部事務局長の加藤俊和氏をお招きし、標記の講演会を行った。
 加藤先生は生々しい実情を分かりやすく説明して下さったので、その要点を簡単に報告する。

 情報障がい…視覚障がい者は「情報障がい者」とも言われる。今回の地震の際も地震が来たことは分かったが、津波が来るかどうか、どこでどのくらいの震度で揺れたかは、画面が見えない者には全く分からなかった。字幕やテロップは音声では放送されないからである。
 避難所では主に「貼紙」で情報が伝えられるが、視覚障がい者には貼り出されたことさえ分からないし、たとえそれが分かってもその貼紙を読むこともできない。例えば、弁当を配る場合も貼紙で知らせるが、私たちにはそのことが分からないし、だれかがそれを知らせてくれたとしても、長い列に並んで少しずつ移動して弁当を受け取りに行くのは非常に難しい。
 「コミュニケーション支援」という制度があるが、これが効力を発揮しているのは聴覚障がい者に対する手話通訳の派遣だけである。厚労省に問い合わせたところ、「視覚障がい者には点訳指導員を派遣する」という回答であった。大震災の時に点訳指導員を派遣して何ができるというのか、また点訳されても点字を読めない視覚障がい者が圧倒的に多いことを厚労省が知らないのか。
 避難所でいちばん困ったことはトイレ!…水洗トイレの使える避難所でも水は出ないので、バケツの水をひしゃくで汲んで流さねばならない。トイレに辿り着くのにさえ苦労する私たちにとって、どのくらいの水を注げばいいかを判断し、こぼさないように正しい位置に注ぎ込むのは至難の業。ある弱視の方は「注意してきちんと流したのに、前に使用した子どもさんがこぼして濡れていたのを自分のせいにされた」と言っていた。多くの避難所では仮設のポータブルトイレである。そこでは紙は別の袋に捨てなければならない所とか、排泄物をビニール袋に詰めて余分な空気を抜いて捨てねばならない所もある。水もない所で、手を汚さずこういうことをしなければならない。また、穴を掘ってその上に板を渡しただけのトイレもあった。阪神淡路大震災の時には、こういう状態に耐えられず、壊れかけた自宅に帰った人がたくさんいた。しかし今回は津波のため、帰るべき自宅もやられていた。
 岩手では市街地から離れた人口の少ない集落で、自宅は壊れていないのに店が津波でやられたため食べ物も買えなくなった方がいた。目が見えれば、車で遠くの店に買い物に行くことができるのだが。
 要援護者登録と個人情報保護の問題…日盲委で現地調査に入り、地元の日盲連、点字図書館、盲学校同窓会に名簿を出して貰ったが、視覚障がい者全体の10%ぐらいしか把握できなかった。宮城県ではやっとのことで行政側から視覚障がい1、2級全員
1,100名の名簿を出して貰い、日盲委からの情報と「今何に困っているか」を書いて貰う葉書を入れて出すことができた。200名ぐらいには届かなかったが、380名から要望の書かれた葉書が返ってきた。その要望の半数ぐらいは「ラジオが欲しい」ということであった。ラジオはすぐにたくさん配布されていたのだが、最も必要としている視覚障がい者には3、4ヶ月経ったその時点でもまだ届いていなかったのである。次に多かったのは「音声の腕時計」だったが、驚いたことに、音声時計の存在や日常生活用具のことさえ知らなかった方が800人の半数近くおられたことである。
 こういう非常時にだれに、だれが個人情報を開示するかが決められていないことが、今回の現地調査ではっきりした。あらかじめそういう手順を決めておかねば間に合わない。また、中途・高齢の視覚障がい者が福祉制度や福祉機器についてもほとんど知らない現実をどうすればいいか、早急に対処する必要がある。

 まだ書き足りませんが、誌面の都合でこれぐらいにします。講演の録音がありますので、希望される方は藤原学習部長まで申し出て下さい。

近況報告


             田元 美紀
 高知を離れてから3ヶ月半になろうとしています。8月18日には、私の送別会を開いて下さいまして、本当にありがとうございました。21名が参加してくれました。その際、皆さんから記念品代を戴きまして、ありがとうございました。青年学生部からは結婚祝いを戴きました。今は松山に住んでおりますが、主人と平穏無事な生活を送っていくことが、皆さんが送別会を開いて下さったこと、私たちの結婚を祝って下さったことを意義深いものにする、と思います。
 松山にも高知の「ですか」のような電車・バスのICカード「い〜カード」があります。市内電車に乗った場合、「い〜カード」を使わなければ150円ですが、使えば140円分がカードから支払われます(身体障がい者手帳、療育手帳所持者の場合は70円分)。松山では高知に比べてバスや電車の路線が当然のことながら複雑で、しかも高知にはない3両編成の郊外電車も走っています。松山にはJRの「松山駅」と伊予鉄道の「松山市駅」がありますが、観光客はもちろんのこと、地元の人ですらこの両駅を混同することがしばしばあります。
 松山に住むようになってから、私は魚を食べる機会が増えました。瀬戸内ではタイ、イサキ、ホゴ、アマギなどの小型の魚が多く、種類も豊富です。いろいろな種類の魚を食べられるということは、それだけ違った栄養価のものを食べられるということにもつながります。
 毎月12日、24日には、牛肉を半額で売っている店へ朝早く行きます。そこでは牛サーロイン肉、牛ヒレ肉などを半月分ほどまとめ買いします。その店では12日、24日には卵10個を24円で買えるので、そのことを知らない人が聞いた時には「嘘なんだろう?」とびっくりするほどです。
 松山では高知に比べて台風、集中豪雨などの被害が少なく、民家には雨戸がありません。雨戸があることが当たり前、という生活を送っていた私にとっては本当に不思議に思えました。
 7月には愛媛県視覚障害者協議会(愛媛民視協)の「ビールの集い」、9月には松山市視覚障害者協会の「芋煮会」、10月には「ふれあいスポーツ大会」に参加しましたが、松山では高知に比べて全盲の方が移動支援(同行援護)を使っていることが多いです。各種のイベントの参加者のうち半数近くがガイドヘルパーであるほどです。
 もし、松山へ行かれる機会がありましたら、その時にご連絡いただければ幸いです。守る会と愛媛民視協の交流の場が増えれば、と思っています。

編集後記


 前号218号は、自治体交渉報告を特集してお送りしました。点字で100ページ、墨字で80ページと、かなりな量になりました。始めから終わりまで読み通すこともありませんが、交渉結果の資料として残しておきたいと思います。自治体にもこの報告集は届けてあります。 
 締め切りの関係でこれまでに掲載できなかった記事もありますし、できれば12月にも発行したいと考えております。また医療体験記事には、読者が結構関心を持ってくれているようですので、もう少し続けてみたいと思います。是非原稿をお寄せ下さるようお願いします。



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