みちしるべ
第237号

目次(ページ内リンク)
◆全視協埼玉大会に行きましょう(全視協全国委員会報告)  井上 芳史
◆知らなきゃ損する年金(岩本英雄さんによる年金学習会)  藤原 義朗
◆つけもの、柚子の酢、いも天など(日曜市の体験報告)  藤原 義朗
◆越前町への点字ブロック、エスコートゾーン敷設に関する意見交換会  正岡 光雄
◆私の医療体験(14)「私の意志は弱いけど石は堅かった」  井上 芳史
◆四万十川の鰻漁  多賀 義忠
◆「土佐清水でマンボーを食べる会」  大野 俊一
◆洋上で迎えた新年(1)  曽田 美紀
◆ちょっと一言   有光 勲
◆編集後記

◆全視協埼玉大会に行きましょう


     (全視協全国委員会報告)
             井上 芳史
 2月14日・15日にかけて、全視協全国委員会が行なわれました。高知からは、
理事の藤原さん、全国委員の井上が参加しました。議長に神奈川・高知・埼玉が担当
でしたが、埼玉が欠席のため、そして神奈川の斉藤さんはこの会がはじめてだったの
で、私が会の3分の2を担当することになりました。
 全国委員会の参加組織は、24組織中(女性部を含む)18組織が出席、6組織が
欠席でした。
(1)埼玉大会……「点字民報」に紹介されていたように、5月30日(土)・31
日(日)の一泊二日、「交流集会が」行なわれます。テーマ別分科会が行なわれ、全
国の仲間と交流し、夜は、夕食交流会でさらに交流を深めることができます。埼玉の
新都心で行ないます。守る会から補助も出ますので是非参加し、全国の仲間と交流し
ましょう。
(2)埼玉大会以降の大会の持ち方……代議員総会の後に交流集会を行なう。宿泊す
るホテルと交流会場が、いっしょが望ましい。分科会を実施する。23組織から会員
一人につき1千円を挙出する、の4点が決まりました。
(3)点字民報について……昨年の4月から新らしいスタイルで発行している。以前
の「点民」発行予算に比べ6割減で発行できている。発行の遅れが改善できた。第三
種郵便のため、東京で作り、大阪の点民社に送り、そこから発送している。東京から
発送できないか、点民社と話し合いを継続する。「点民」は残部があるので活用して
ほしい。
(4)身障手帳について……「両眼の視力の和で等級を決めるのではなく、優位眼(
見える側)の視力で決めてください」国会請願行動を眼科医と連携をとりながら進め
ていく。
(5)静音声車について……「音を出さない車は欠陥車」という表現を改める。低速
走行時だけでなく、停止時にも擬似エンジン音を付加させる。特に、公用車には義務
付ける運動を行なっていく。
(6)北陸鉄道のバスは、事前に連絡しておくと、運転手がサポートしてくれる。
(7)新潟では、青空マッサージを計画していたら、保健所から開設届け・廃業届け
、転居の写しを提出させるようにいわれた。
 議長をしていたため、高知からの質問や意見など十分に発言できなかった。今後の
大会の持ち方について一時間程で終わらせたかったが、二時間程かかり、議長の難し
さを感じました。

◆知らなきゃ損する年金


 世の中のしくみを変えることが必要!
藤原 義朗
 昨年12月7日に、本会会員である岩本英雄さんを講師に、「どうなる私たちの年
金」と題して学習会を行った。
岩本さんは、2011年までジブラルタ生命保険会社で働いておられた守る会きって
の経済通である。我々が知らされていない年金の話をはじめ、話題は世界経済にまで
及んだ。
文字起こしすると膨大になるので、ポイントを箇条書き又はキーワードで示すことに
する。なお、参加者は15名であった。
1.国民年金
厚生年金は保険であるが、国民年金は税であるから保険ではない。国民年金夫婦の場
合、どちらかが死亡した場合、子どもがないと遺族に年金はない。子どもがいると基
礎年金額に子どもの加算が付く。64400円+子ども加算約2万円。なお、14年
4月の改正で妻が亡くなった場合でも対象になった。
2.障害年金
カルテ保存期間は5年。うまく受診していると5年遡及できる。今までの障害年金の
等級は「視力が0.01」というような生物学的なもの。今年から1級なら「日常生活に
おいて他人の介助を必要とするもの。行動の範囲が概ね室内に限定されるもの」と、
範囲があいまいになった。
厚生障害年金3級は、「就労にいちじるしい障害のある場合」とされている。厚生年
金手当金の金額はだいたい110万円くらい。障害固定ということでもらうのだから
、もし、その病状が進み2級・1級をもらおうとすると、手当金は返還しないと年金
はもらえない。
3.マクロ経済スライド
被保険者数の減少や平均余命の伸びなどの考慮から年金を下げるというマクロ経済ス
ライド制がとうとう一昨年実施になり、年金が2段階で下がった。
4.計算してくれます
もし自分の年金額を知りたい場合は、日本年金機構のホームページに入って年金番号
を入力したら老齢年金を計算してくれる。60歳まで、今までの仕事を続けた場合の
金額が出る。年金番号が分からない時は、年金機構で本人証明ができれば教えてくれ
る。
5.加給年金
サラリーマンが老齢年金になった時、基礎年金と老齢厚生年金を受け取るが、奥さん
が老齢基礎年金をもらうまで加給年金がもらえる。年齢差があれば加給年金をもらえ
る期間が長い。事実婚でもよい。
6.怖いアベノミクス
安倍さんは、年金財政150兆円を株に注ぎ込む事を決定。下落することもある。か
つて、バブルがはじけた時も年金を損失したことがある。せられん!危険!
7.生活保護
生活保護より安い国民年金。生活していく最低ラインは必要。小泉政権で派遣法がで
き、潜在的な予備軍が1500万人から2千万人ともいわれている。雇用労働者が減
っているから保険収入も減ってきている。コンクリート経済は止めにしたがいい。
8.消費税
税率が上がると輸出戻し税の関係で、トヨタなど輸出企業は儲かる仕組み。1%上が
ったら税収は2.7兆円の増収のはず。しかし、輸出戻し税の関係で2兆円にとどま
る。だから、財界や大企業は消費税を上げたがる。
消費税10パーセントに上がったら、年金の加入期間25年を10年にするという話
がある。消費税として入ってきたお金には色がついていない。
9.今後どうなるの
現在、年金給付受けている人は調整的なものであまり減らない。昭和40年以降に生
まれた人はもらう額が下がる。給付開始年齢が上がることなどにより2割減らされる
危険性がある。国債が暴落したら年金に影響が出てくる。
以上、年金相談は、岩本さんのメールアドレスにご相談ください。

◆つけもの、柚子の酢、いも天など


      日曜市の体験報告
              藤原 義朗
 昨年12月14日(日)、初めての試みとして日曜市ツアーを行いました。守る会
からは5名の参加でした。シルバー人材センター、高知大学農学部の学生さんがエス
コートしてくれました。
 北代さんはいも天や柚子の酢、田處恵子さんはシクラメンの花など買っておられま
した。藤原は、つくね、丸こんにゃく、鮎、しょうがを買いました。土佐弁を上手に
使うとお店のおばちゃんともうまく話せ、調理法なども掘り下げて教えていただけま
した。
 今後、サピエ図書館の地域情報のページなども使い、季節に応じた情報などを掲載
していただきたいなどの意見もきかれました。日曜市を買いやすくするご意見、役員
までお寄せ下さい。

◆越前町への点字ブロック、エスコートゾーン敷設に関する意見交換会


        正岡 光雄
 以下の陳情書に基づいて、去る2月4日(水曜)4時から、点字ブロック敷設に関す
る意見交換会を行いました。参加まことにありがとうございました。参加人数は11
名でした。
 ここでその概略をお知らせして、今後への教訓としたいと思います。
 盲学校から郵便局までの経路はエスコートゾーンだけでなく、新たに歩道を作り、
そこにも点字シートを敷設する必要があるようです。したがってそこは以前の通り車
は一方通行になるようです。
 越前町商店街の南北道路はやはり、点字シートそれと横断部分はエスコートゾーン
敷設が必要です。その際該当の東側道路は電柱があり、「敷設」には歩道の拡張と車
道側のセンターラインの除去が必要です。
 なんだか大がかりな工事になり前途多難な感じもします。地元の方の同意にも時間
を要する気もしますが、高知市としてはなんとか推進したい方向です。つまり、エス
コートゾーン敷設には県警の同意が必要です。商店街への敷設については地元の方と
の話し合いを行わねばなりません。
 乗りかかった船です。なんとか早急な敷設を実現したいものです。
 皆様大変お世話様でした。

   陳 情 書
 越前町には盲学校、小高坂更生センター等の施設があり、視覚障碍者の通行も頻繁
です。加えて最近、商店街はかつての様な活気を失い、それに呼応して車もスピード
を増して走行しており大変危険です。
 昨年の暮れ、全盲のAさんが歩行中バックしてきた車に跳ね飛ばされ、転倒し入院
しました。また過去にも停車していた車が急発進し、負傷した例があります。早急な
対策が求められます。
       陳情事項
 盲学校から越前町郵便局を経て、南北の越前町商店街北詰までの点字ブロック、エ
スコートゾーン敷設をお願いいたします。
以上よろしくお願いいたします。

◆私の医療体験(14)


 「私の意志は弱いけど石は堅かった」
             井上 芳史
 今年、私は年男。48歳か、60歳か、72歳かは各自の判断でお願いします。今
年はひつじ年。「メーメー」としか言えないひつじがのんびりと過ごせる安心できる
平和な社会を作ってほしいものです。憲法9条はいらないなんて言っているオオカミ
のような方は平和な社会にはいりません。
 さて、私が腎結石を持っていることがわかったのは5年程前です。さらに、その5
年程前には胆石症で手術をしました。
 昨年の夏、定期検診で「腎結石が大きくなっており、そのまま放置しておくと腎臓
に良くないから高須病院を紹介しましょう。8月27日に紹介状を取りに来てくださ
い」と言われました。8月19日、国家試験に向けての補習の準備や研究大会の後処
理などで朝からバタバタ、17時には職場を出る段取りで仕事をしていました。15
時頃から軽い腹痛が起こり始めました。「大便かな?でも便意はない。もう少し用事
をしてから……。」16時頃、少し腹の中で締め付けられるような感じ、便器に座っ
てみたが大便は出ない。17時が近づいてきたから急がないと、症状は楽になるどこ
ろか少しずつ強くなっているような感じでした。そのうちに楽になるだろうと小走り
で会場に向かっていると、下腹部に激しく締め付けられる感じ、前傾姿勢をとり、傘
で体を支えながら会場に到着、椅子に座り、いろいろと姿勢を変えても一向に楽にな
らない、全身から冷や汗、意識は薄らいできて人と会話もできない。迷惑をかけても
いけないのでタクシーを呼び、検診を受けた病院に直行。医師に腎結石を話し、CTを
撮ってから「腎結石による痛みでしょう。明日、高須病院に行ってください」と説明
があり、痛み止めの注射を受けて楽にはなったものの再びあの痛みが襲ってくるので
はと恐怖と不安でいっぱいでした。
 高須病院は職安の少し北にあり、電停からはタクシーで700円程度、文殊通りの
電停から病院の送迎車が出ていることがわかり助かりました。
 検査後、医師から体外衝撃波療法と手術があることの説明がありました。手術をす
ると1週間ほど入院しなくてはならないので体外衝撃波療法を選びました。予約表を
見、2週間後に予約し、帰路につきました。
 2週間、あの痛みが襲ってきたらと、座薬をカバンに入れて通勤していました。少
し痛みが出てきたら、ベットに寝ていると楽になることも分かってきました。一度だ
け、朝食後、なんとなくお腹に違和感、自宅から電車通りまで徒歩10分。電車に乗
っているうちに、軽い腹痛と吐き気、仕方なく上町2丁目で電車を降り、歩いている
うちに痛みが増し、少しずつ前傾姿勢を取りながら職場に向かいました。治療室のベ
ットに倒れるように寝、仕方なく、座薬を取り出し、肛門に突っ込みましたが2時間
ほど苦しみました。結局、仕事はできず年休をとってベットで寝ていました。
 体外衝撃波療法は30分の治療、1分間に
100発、結石に3千発の超音波を照射します。
パンツ1枚になり、その上に手術着を着てベットの上にあおむけに寝ました。ベット
の下に空間ができ、導子が側腹部にあたりました。側腹部に液体を塗って導子の上に
載せられました。お尻に痛み止めの注射、抗生物質の点滴を打ち、これで準備はオッ
ケー。
 衝撃波の最初はパワーが弱く、まるで、鍼パルスで皮膚の浅い部分を刺激されてい
るような感じでした。次第に体の深部に刺激があたるようになりました。部屋の中に
は拍子木でたたくような音が聞こえました。照射20分頃からはこれ以上強くされる
と耐えがたいなという感じ、体内にズンズンと衝撃が伝わってきました。治療後、血
圧は180mmHg (普段は120mmHg程度)と上がり、体がフラフラして頭重感があ
りとてもしんどかったです。医師の説明ではこの療法を2、3回実施して粉砕、3〜
4週に1回の療法、間隔が短いと腎臓が傷つく恐れがあるとのことでした。私も2回
の衝撃波療法で粉砕することができ症状が出てから約3カ月かかりました。
 最後に耳寄り情報、この体外衝撃波療法は民間医療保険の手術にあたり、保険料が
帰ってきました。

◆四万十川の鰻漁


             多賀 義忠
 守る会の皆さんこんにちは。正会員の多賀です。賛助会員も多くなったとのこと、
大変うれしく思います。お目にかかったこともない方もいますので、最初に自己紹介
させていただきます。
 私は、1964年(昭和39年)に高知盲学校を卒業しました。視力は、ゼロです
。卒業後は中村(現四万十市)に帰り病院に勤務しました。今は、退職し、いわゆる
隠居生活を送っております。趣味で畑へ行って野菜などをつくったりしています。
 さて、最近日本鰻の絶滅が心配され、何とかこの危機を脱しようとあれこれその手
だてが問題になっているようである。ここ四万十川でも、もう事実上絶滅と言っても
よろしいかと思われる。今天然鰻を釣るのも、漁師といえども難しい状況にある。漁
獲が減ったとは言われながらも、30年代にはまだ一定の水揚げは可能であった。
 鰻漁は大きく三つの漁法があった。一つは釣り上げる漁法と、箱の中に餌を入れて
その餌を求めて箱に入り、入ると戸が閉まって出れなくなる漁法であり、いま一つは
金突きで突いて取るというやり方でした。
 学名は知らないが、鰻には3種類の魚種があった。一つは、川原の砂利石にいるど
ちらかといえば体調の小柄で頭も小さい物で「りんず鰻」と呼ばれるものであった。
3種類の内ではこのりんずが一番美味いと評判がよかったと思う。さらに、大きな岩
ばかりのところにいる物で、体にてんてんとゴマをふっているように見える物を「ゴ
マ鰻」と呼んでいた。これは大物であったが、味はいまひとつで、りんずほど好まれ
なかったようである。いま一つは、山の谷の岩の間にいる頭の太い痩せた物で「がね
くい鰻」と呼んだ。りんずよりもゴマ鰻よりも味が落ちるため、昔は地元の人は釣っ
ても捨てたりした。
自分の家でおかずにするのは、金突きで突いて水揚げするのが普通であった。川の砂
利の中で、深くても大人の背丈の2倍から3倍のところに横たわっているのであるか
ら、金突きで突くのにそんなに難しくはなかったようである。この漁法だと捕った鰻
が清潔で、安心しておかずにできるからである。商売にするのは箱漁という漁法であ
った。これは、長さが150cmもあったのでしょうか。幅はこの点字板の半分の広さ
で、高さは10cmもあろうかなかろうかであった。それにミミズを入れて夜川底に沈
めておいて、朝になって上げると時には身動きがとれないほど入っていることがあっ
た。これを「もじ」と呼んでいた。これは箱のどちらかに、中に押したら開くが中か
ら外に押しても開かないドアを付けているのである。これを「こじた」と呼んだ。こ
のこじたの開きによって鰻の入りが変わるということで、誰の作ったこじたなら間違
いなしだと言って、こじたを作る腕前を競い合ったものだった。
 毎朝街から鰻やさんがきて買い取ってくれるのであった。これこそ現金収入で、川
が大水にならない限り間違いなかったのである。「今朝は2貫200あるので220
0円じゃのう。」といったぐあいである。その漁業期間はだいたい5月半ばから11
月頃までであったと記憶している。一ヶ月に5万円くらいになることもあった。
 そんなこんなで鰻や鮎のおかずばかり食わされて、たまに街から蒲鉾や竹輪など売
りにきて、それを買ってもらうとそれが美味いのなんの、街の人は毎日こんな物が食
えていいことよと羨んだものであった。
 それが今ではどんなに金持ちの社長さんの口にも届かなくなったとは、本当に時代
の変化はただただ驚くほかありません。
 漁獲量の減少はいろいろ原因があるでしょう。パソコンにメールを打ちまくること
と関係があるようにも思えますが、とにかく時代の流れとして片づけなくてはならな
いでしょう。

◆「土佐清水でマンボーを食べる会」


             大野 俊一
 会員の皆様お久しぶりです。レク部員の大野です。2月8日に土佐清水に行った時
のお話をしたいと思います。お話をする前にレク部員でありながら仕事・雑用に追わ
れただの参加者と化したことを謝りたいと思います。企画・準備など他のレク部の皆
さまお疲れ様でした。
 さて本題に入りたいと思います。
 皆さん今土佐清水で一番ホットな場所、デートスポットにおすすめの場所、ジョン
万次郎記念館に行ってきました。入館料1000円払って入ってみるとそこは、幕末
海の男たちの冒険・友情物語が繰り広げられていました。
 冒険者の主人公の名は、ジョン万です。彼は、漁師仲間4人と共に土佐清水沖で嵐
に会い遭難してしまいます。たどり着いたのが伊豆諸島の無人島鳥島でした。そこで
3か月を過ごしアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されハワイにたどり着
きます。そこで仲間と別れ船長ホイットフィールドに頭の良さを認められアメリカ本
土に連れて行かれます。本人の希望でもあったようです。
 アメリカでは、いろいろ勉強し捕鯨船の乗組員となって日本の近くまで来たことも
あったようです。しかし日本は、鎖国状態でもあったこともあり帰ろうとはしなかっ
たようです。その後自分の船を買い日本に帰る決意をします。彼が資金集めに選んだ
仕事は金鉱堀でした。その頃アメリカは、西部ゴールドラッシュのまっただ中でした
。荒くれ男たちに交じって拳銃を腰にぶら下げジョン万も金を掘ったのでしょう。そ
こで600万ドルを手にしたというのですからすごいです。その資金で船を買いハワ
イで仲間2人と合流し上海行きの船に自分の船を乗せてもらい沖縄に帰ってきました
。そこで薩摩藩の取り調べを受けたようです。その後通訳としてあらゆる外交交渉の
影の功労者となったことは、皆さんも知っておられると思います。
 ところでジョン万が長くなりましたが、私たち一行には、もう一つのミッションが
ありました。それは、巨大なマンボーを食べる事でした。マンボーの丸焼き、それは
食べきれません。体の半分は、水分と言いますがそれでも無理です。一部をカットし
た身は、から揚げ・煮つけとなってやってきました。身は、柔らかくておいしかった
ですよ。酒のつまみにあいそうです。ぜったい日本酒がお勧めです。皆さん試してみ
て下さい。土佐清水のスーパーには、普通に売っていますので。参加者の皆さんは、
ビールのつまみにしていたみたいですが、個人的には邪道だと思っていて、おいしい
のは日本酒、声を大にして言いたかったです。皆さんお間違いの無いように。
 最後に土佐清水在住で会員でもあります山崎様ご夫妻のご厚意で旅の進行がスムー
ズに出来ましたことをこの場をお借りしお礼申し上げます。本当にありがとうござい
ました。
 参加者の皆さん高知から、中村の多賀さんお疲れ様でした。楽しかったですね。ま
たの機会にご一緒させて下さい。

◆洋上で迎えた新年(1)


             曽田 美紀
 昨年12月27日(土)から今年1月4日(日)にかけて、私は主人とにっぽん丸
での「ニューイヤー グアムサイパンクルーズ」に参加した。海外で新年を迎えたこ
とは初めてのことだった。また、小学生の頃、学研(学習研究社)の学習雑誌で豪華
客船の図解を見て以来、豪華客船で旅行することは憧れだった。
  *12月27日(土)
 横浜港の大桟橋国際客船ターミナルの受付で乗船券を乗船証と引き換えた。出国手
続きを済ませてから、パスポートを係員に預けて乗船した。乗船証をドアのセンサー
にかざして鍵を開け、部屋に入ってから、荷物の確認をし、2階のメインダイニング
「瑞穂」で昼食をとった(和食)。
 13時前に、4階のプロムナードデッキに出た。「ボンボヤージュ・サービス」が
行われた。シャンパンが振舞われた。港の屋上では「いってらっしゃい!」と書かれ
た横断幕が掲げられ、ブラスバンドの演奏があった。参加者たちは港に向けて色取り
取りの紙テープを投げた。13時に出港した。
 14時、部屋に備え付けられた救命胴衣を着け、避難訓練に参加した。4階に上が
り、乗組員の指示に従ってプロムナードデッキに出た。乗組員が参加者一人一人を点
呼した。参加者たちは寒い寒いと震えていた。避難訓練の後で、7階のリドテラスで
ハンバーガーを食べ、ゴディバのショコリキサーを飲んだ。
 15時、6階のマーメイドシアターでの「クルーズの扉」で、船内での過ごし方、
楽しみ方などについての説明を聞いた。船内設備、サービスについての映画も上映さ
れた。
 18時、6階のラウンジ「海」で、春風亭柳朝さんの落語を鑑賞した。
 カジュアルのドレスコードに合った服装に着替え、「瑞穂」で夕食をとった(和食
)。今回のクルーズでは参加人数が多かったので、夕食は1回目(早番、17時30
分〜19時)と2回目(遅番、19時30分〜21時)に分かれた。私たちは2回目
だった。
 翌日の船内新聞 "Port & Starboard"(「左舷と右舷」という意味)が部屋のドア
横のポストに入っていたので、それを読み、翌日のイベント参加の計画を立てた。船
内新聞はクルーズ中、毎日配られることになっている。イベントと食事のスケジュー
ル、各施設の営業時間の案内、船内生活についての注意事項などについて書かれてい
る。
 22時30分、「瑞穂」で夜食をとった。夜食はビュッフェ形式だったが、消化に
差し障りがないよう、食べる量を少なくした。
  
  *12月28日(日)
 6時15分、4階の左舷側のデッキに出て、鳥島を撮影した。前日よりも海の青色
が濃くなっていたし、寒さも和らいでいた。7階のホライズンラウンジで、主人はエ
スプレッソ、私はコーヒーを飲んだ。
 7時、6階のオーシャンダイニング「春日」で朝食(洋食)。「春日」は船尾のほ
うに位置しているが、すぐ外のデッキにも食事のできるテーブルがあった。
 8時、鐘の音が8回鳴った。これは「八点鐘」という、乗組員の交替を告げる鐘の
音である。船内放送で船長のお話を10分ほど聴いた。この日の朝は、鳥島を通過す
るということから、アホウドリについての話題だった。
 8時30分から45分までにお茶席とカクテル作りの整理券が配布されたが、私た
ちはどちらも貰えなかった。「なんで1人が2人分以上の券を貰うんだろうか」「1
人に1枚渡すのが常識ではないか」と言い合っていた。
 9時、7階のホライズンラウンジで整理券を貰い、順番に降りて操舵室の中を見学
した。9時26分、4階へ降りて塔のような形をした孀婦岩(そうふがん)を見た。
 10時から10時45分まで、ラウンジ「海」で「にっぽん丸クイズ」があった。
船や海に関するクイズが20問出された。3択で答える(正しい答えの番号札を掲げ
る)形式だった。私は6問ぐらいしか正解しなかった。
 11時から4階のドルフィンホールでオプショナルツアー説明会があった。オプシ
ョナルツアーの日程、グアム、サイパンの天候、服装で注意すること、お勧めのお土
産などについて説明がなされた。引き続きグアム・サイパン入出国説明会があった。
説明会の後で、書類の書き方で分からないことについて係員に訊き、必要な箇所を書
き上げてから提出した。
 14時、7階の船尾部のスポーツデッキで輪投げ大会が開かれた。9本の棒が立っ
ている正方形の的3台が用意された(輪の色:左舷側から赤、黄色、青)。5個の輪
を投げてその輪が入った棒の数字の合計で得点を競うのである。参加者は3組に分か
れ、それぞれの組から1人ずつ出て、順番に輪を投げていった。私は順番が早かった
が、1回目、2回目とも面白いほどに輪を入れることができた。私の次は主人の番だ
ったが、主人が投げる時には私が的の傍で手を叩いて位置を知らせた。2回目に主人
が輪を入れられた時にはとても嬉しかった。個人戦では、私は2位になった。
 輪投げ大会の後、水着に着替えて7階のプールで泳いだ。温水プールなので、快適
だった。プールが深くて(水深1.5m)中では立てないので、休む時はプールの端
につかまっていた。泳ぐのは久しぶりだったので、長さ7.7mのプールでも端から
端まで泳ぐとさすがに疲れた。だが、慣れてきたら泳ぐのが楽しくなってきた。
 18時から18時30分まで落語を鑑賞し、カクテルパーティーに備えてスーツに
着替えた。主人は白のネクタイを締め、私はコサージュとネックレスを身に付けた。
 19時から船長主催のウェルカムカクテルパーティー(2回目)がドルフィンホー
ルで開かれた。和服を着た参加者もいた。初め、船長からの歓迎の挨拶があった。引
き続き、機関長、ゼネラルマネージャー、クルーズコンセルジュからの歓迎の挨拶も
あった。この日のカクテルは「梅月夜」(辛口、ウォッカベース、赤)と「笹鳴」(
甘口、リキュールベース、緑)。それから、アルコールを飲めない人のことを配慮し
て、ノンアルコール「日向ぼこ」(薄いオレンジ色)も用意されていた。
 パーティーの後、2階の「瑞穂」でウェルカムディナー。洋食のフルコースで、オ
ードブル、スープ、魚料理、グラニテ(口直しの氷菓)、肉料理(メインディッシュ
)、サラダ、デザートの順に出された。国産牛フィレ肉のグリエにはフォアグラが添
えられていた。フォアグラを食べるのは初めてだったが、口当たりが滑らかで美味し
かった。ビールとワインも注文して飲んだ。
 21時15分からドルフィンホールで、吉田篤弦楽四重奏団のクラシックコンサー
トが開かれた。バイオリン、ビオラ、チェロによる四重奏のほか、ソプラノの村元彩
夏さん、ピアノの辻田祐季さんも加わった演奏も聴くことができた。
 夜食として水団汁ときんつばを食べたが、さすがに焼きそばは食べられなかった。
              (つづく)

◆ちょっと一言


   −− 年賀状の書き方 −− 
  有光 勲
 これは前回、12月号に載せることが出来ていたら、年賀状を書く際の参考にして
もらえたかも知れない。しかしその時にはまだこのネタを仕入れていなかった。
 皆さんは年賀状に「新年明けましておめでとうございます」と書いてはいないだろ
うか。これはまちがいだと言う。なぜか?「新年」と言えば「明けまして」と言う意
味が含まれているし、「明けまして」と言えば「新年」と言う意味も含まれている。
だから言い方がダブっているので誤りだと言う。RKC高知放送で毎週月曜から金曜
まで、朝8時25分から30分まで、「スズキ・ハッピーモーニング、鈴木杏樹のい
ってらっしゃい」と言うミニトーク番組がある。その中で昨年12月中頃にこのよう
な話をしていた。しかし、私自身このような言い方はして来たし、よく耳にもしてき
た。
 ほんとに間違いだろうか?気になったのでラジオやテレビの正月番組で、その点に
注意して聴いてみた。話のプロと思われるような人でも「新年明けまして」と言って
いた。鈴木杏樹さんも彼女の考えではなく、何かの資料に基づいての話であろう。「
明けましておめでとうございます」「新年おめでとうございます」と 言うよりは「
新年明けましておめでとうございます」と言う方がより丁寧な、フォーマルな感じに
なるのではないかと私は思う。いくら何でも「頭痛が痛い」と言うのはおかしいが、
読んだり聞いたりしていて全く違和感がなく、ごく自然な流れとして 受け取ること
が出来れば、もはやそれは「間違い」とは言えないような気がする。
 それから、皆さんは、かっこよく A happy new year なんて書いてはいないだろう
か。これは間違い。年末の挨拶で「どうか良いお年を」と言うことになるらしい。新
年の挨拶は Happy new year となる。Aをつけてはいけない。私は英語で書くことは
ないが、「くわばらくわばら」。知ったかぶりをしていたら大恥を書くことになる。
 そもそも文法というものは、言葉を研究し、一定の規則性を見出したものである。
文法が先に出来ていて、それに従って言葉づかいをしているわけではないのである。
うろ覚えであるが、「まず最初に」と言う言い方も誤りであると言う。これは「初め
に初めに」と言っているのと同じだから、そのどちらかでいいと言うのである。しか
し これまた「まず最初に」と言われたとしても何の違和感もない。繰り返しになる
が少々意味がダブっていたとしても、ごく自然に聞こえればそれでいいのではないか
と私は考えている。しかし、このような話を聞いた以上、もう来年からは「新年明け
まして」という言い方はやめにしようかなと思っている。
 ちなみに、これは年賀状とは関係ないが、ちょっと気になる言葉がある。それは「
全然いい」という言い方である。「全然」と言えばその後には「よくない」と否定文
が来るのではないか?
ためしに広辞苑を引いてみると、「否定文に用いるが、俗な言い方として肯定文にも
用いられる」と書かれていた。そのような言い方をする人が増えたために、それを認
めざるを得ないと言うことかも知れない。このように言葉というものは、時代と共に
変わっていくものであろう。さらに、ことわざについても、その本来の意味とは異な
った解釈をする人が増えてきているらしい。長くなるので、それについてはまた別の
機会にお話しさせてもらうことにしたい。

編集後記


 この「みちしるべ」は、年間4回発行することになっております。これで、今年度
のノルマは果たしたことになりますが、できれば総会までにもう一度発行したいと思
っております。この会報をお読みになっての感想などお寄せいただければ幸いです。
 総会は、6月21日(日)です。いつものように懇親会もありますし有意義で楽し
いひと時をすごしたいと思いますどうか皆さんお繰り合わせのうえご参加くださるよ
うお願い致します。



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