みちしるべ
第244号

目次(ページ内リンク)
§「オムライスと老人施設」  藤原 義朗
§ テーマ別集会「福祉」に参加して  井上 芳史
§ 全視協テーマ別集会:「福祉」イン奈良『あなたの老後は!?』  安芸 くみこ
§「今までにない自由な音楽会♪」  山崎 理恵
§ バス巡りレポート  井上 一美
§ 視力障害の方々との関わりの中で  田元 めぐみ
§ 弱視者の一人ボヤキ(思い出すままに取り留めなく)  片岡 義雄
【特集】内閣告示から差別語を削除した経緯  長谷川 貞夫(東京)
§ 私の戦中・戦後  小澤 幸泉
§ 宿毛での山崎理恵さんの講演会に参加して  時久 恵吾
§ ちょっと一言 こんなタクシーも  有光 勲
§ 編集後記

§「オムライスと老人施設」


              藤原 義朗
 恒例の福祉施設バスめぐり(4月29日)、元気号は15人を乗せて出発した。

1.盲養護老人ホームくすのき荘の隣に出来た日本で3番目の聴覚養護老人ホーム「
静幸苑(せいこうえん)」。日高村の山の上にあり、3月にオープンした。
 大部屋や各個室には、強い光で点滅するフラッシュランプと赤だいだい緑のLED
が設置されている。まず、フラッシュランプでお知らせがあることを伝え、赤は緊急
、だいだい色は食事です、緑は風呂です、の信号である。また各個室もドアノックの
代わりに発光ランプで知らせる。
説明にあたった吉川事務長さんは、しきりにお金の話をしていた。
「建設予算が倍」「消費税が上がったが、市町村からの措置費は追いついていない」
「質を良くするには職員の賃金に充てねばならないので大きな赤字」「国は社会福祉
法人は儲かっているというが、それは一部」など、語っておられた。
 まだ、入所者は1名。「今後、盲ろう者も含め入所された方のケースに対応して情
報提供方法など充実してきたい」とのことであった。
 なお、盲養護くすのき荘であるが、入所者も歳月が経ち要介護3,4,5の人も増
えているとのこと。その他、廊下の曲がり角に人がいるとブザーが鳴り衝突を防止す
るなど改善されてきている。

2.オムライス
 日高村特産のシュガートマトで作ったトマトピューレを使ったオムライスは有名だ
。日高村にはオムライスを提供する店が11件あり、黄色い旗が立ち並び「オムライ
ス街道」と呼ばれている。
 障害のある人たちで特産のシュガートマトを栽培しピューレ作りや、おもてなし活
動をしている就労継続事業所B「わのわ2号店」へ入った。こちらがお目当ての人も
おいでたみたい。昼食をとったあと、芋アイスや芋けんぴ、トマトソースなどを買い
込み出発した。

3.老人施設いろいろ
 朝倉病院は医療保険および介護保険の療養型病床を合わせて約350床持っている
。そのすそ野に比較的安い、老人施設が並んでいる。バスの中や、また歩きながら説
明させてもらった。
・軽費老人ホームA型
「あかねの里」(高知新聞社会福祉事業団)
・有料老人ホーム(住宅型)
「あさくらの里」(香南会)
・グループホーム
「ほのぼのの家」(長い坂の会)
・グループリビング
「お茶の間千春」(菜の花プラン)

4.これからが真価発揮(?)、「サ高住」
 サービス付き高齢者向け住宅とは、5年前の高齢者住まい法の改正で出来たあくま
でも住宅で、「見守り」と「相談事業」とがある。最近、全国で急速に建設が進んで
いる。今回訪問した「絆・わかくさ」は療育福祉センターの東にあり、出来てから2
年半になる。48室でインターネットも出来る環境である。パンフレットでは、家賃
食費など含め月12万8千円から14万5千円の金額である。
 しかし、1階にはデイサービス、またヘルパー利用の際は特定の事業所指定となっ
ており、施設に介助など求めていくと、どんどん加算される仕組みである。
 今後、介護度が上がっていった場合にどれ位の負担になるのか。また、視覚障害に
対して専門的な支援が出来るのかが心配であり、今後の課題である。

§ テーマ別集会「福祉」に参加して


             井上 芳史
 9月10日、11日と奈良で行われ、高知から4名の仲間で参加しました。神奈川
8名・埼玉8名・東京7名など全国から97名が集まりました。日下部さんの講演内
容のポイントを報告します。日下部さんは堺市で介護保険担当の職員でした。
○大きく変わり始めた介護保険?
 2015年12月に行われた「経済財政再生計画検討会」で介護保険が検討されま
した。
 1.軽度者サービスの見直し:生活援助や福祉用具・住宅改修などの自己負担(一
部補助)
軽度者サービスを市町村事業(総合事業)へ移行総合事業とはサービス内容や価格、
利用者負担などは市町村の裁量で決定。NPOやボランティアなども担い手にしてコ
スト削減を図る。市町村ごとにばらばらな制度になる。
 2.2割負担の対象拡大:医療費の自己負担額に連動して、介護保険の自己負担も
65歳以上は2割負担となります。
 3.マイナンバー制度を活用した負担:預貯金など資産が一定あればさらに高い負
担になる。
○障害者と介護保険
 65歳未満の者が交通事故で脊損になっても介護保険の対象にならない。介護保険
は「加齢に伴う」が対象となっている。今後、20歳から介護保険料を徴収する代わ
りに交通事故後遺症や障害者も対象にする考え。
 介護保険料は40歳以上の国民全員が徴収されているのではない、生活介護を伴う
障害者施設に入所者は免除となっています。
 交通事故後遺症など全ての者が障害者手帳を取得し、障害者総合支援法のサービス
を利用していければ、介護保険料は上がっていかなくなるのではないだろうか。
○講演に対しての意見
「誕生日が来る前は総合支援法によるサービスで無料であったが、誕生日後は介護保
険となり1割負担となった。心の整理がつかないのでサービスを休止している」「総
合支援法では社会参加を目的としているのに65歳を過ぎると介護保険となって社会
参加は関係なくなるのか?」など、私自身も数年したら65歳、「65歳問題」を学
習する必要があるなと痛感させられました。

§ 全視協テーマ別集会:「福祉」イン奈良『あなたの老後は!?』


安芸 くみこ
「これから介護保険が大変になるから勉強に行こう」と藤原さんから再三のお誘いで
参加を決意。9月10・11日(土・日)に、高知から、井上先生、藤原さんと3人で7
時間余り、奈良に到着。着いた時には、日下部さんの「福祉介護の65歳問題 要支
援の保険外しにどう立ち向かうか」の講演が始まっていました。私は61歳、弱視で
見えなくなることが一番の不安です。でも盲導犬を連れた方やヘルパーさんと一緒に
参加している方が沢山いて驚きました。障害者は福祉のほうで支援が保障されていた
のが65歳になると、介護保険に移行され、負担も増えることを知り、他人ごとでは
ないことが判りました。お金があったらマイナンバーできっちり監視され、ない人も
負担はしっかり取る。また、20歳から介護保険料の徴収を考えていることなどを聞
くとぞっとしてきます。そんな中で藤原一座のコントはおもしろく身につまされるこ
とも笑い飛ばしてくれました。
夜の交流会では、自己紹介で大阪の「戦う女です。」その声は明るく元気で感動的で
した。歌も唄って陽気で気持ちがいい交流会でした。
 2日目、老後は自宅か、施設か。どちらで過ごすのかという意見交換でしたが、男
性は2年、女性はおむつをしても5年は長生きするとのことで、サービスも使いなが
ら、できるだけ自宅で頑張るという意見が出ました。いろんな経験や困ったことなど
を聞きながら、まだまだ人生は長いなぁと感じています。
一泊だったので、同室になった静岡県のヘルパーさんとの出会いは、またどこかの集
会で会えそうな楽しみの一つになりました。
社会保障がおかしな方向に進んでいる時のお誘いでしたので、とても良かったです。
藤原さんのお誘いに根負けしたのが本音です。
ありがとうございました。

§「今までにない自由な音楽会♪」


山崎 理恵
10月16日、素敵な音楽会を親の会のお母さん方が企画し、15名の皆さんが参加してく
れました。今回の音楽会は、高知県立盲学校高等部3年生で全盲の井上直樹君の素晴
らしいピアノ演奏に合わせて、小学部5年生で弱視の井上翔くん、同じく小学部6年生
で全盲の娘とで歌を歌いました。そして盲学校OBの20歳になった全盲の一生くんもテ
ープに録音した素敵な声の詩吟を披露してくれました。
かえるの歌、バラが咲いた、ゆきやこんこ、たき火、などなど…次々とピアノをひい
てくれる直樹君。みんなニコニコしながら、手を叩き、身体を揺すりながら歌いまし
た。守る会の先生方や、親の会の皆さんと一緒に、とってもアットホームな時間を過
ごすことができました。
今まで聞かせたいと思って連れて行った素晴らしいコンサートは、全盲の重複障がい
のある娘には静かに聞くことができず、係員の人から「すみません、託児所をご利用
下さい」と言われ退室しなければならなかった経験もあり、かしこまったコンサート
は苦手でした。
今日はそんな心配はまったくいらず、子どもたちは自由にのびのびと大きな声をあげ
て歌いました。子どもたちに寄り添って企画して下さった親の会のお母さんたちに感
謝の気持ちで一杯です。
これからもこんな素敵な企画を考えていきたいです。

§ バス巡りレポート


井上 一美 
盲学校、高等部3年の井上直樹の母親です、賛助会員ですが、来期より会員として仲
間入りさせていただく予定です、よろしくお願いいたします。 10月27日木曜日に、
元気号で、先輩方の様々なお話を聞きながら、障害者入所施設バス巡りに参加させて
いただきました。 2ヶ所の施設に案内していただきましたが、施設のパンフレット
を読んだだけでは、うかがい知れないことも多く、とても参考になりましたので、ご
報告したいと思います。 まず最初に、高知医療センター横の県立大学の直近に建て
られている、障害者支援施設「アドレス高知」でバスを降りました。ここは、津波の
心配のある低所から移転してきた施設で、とても新しくバリアフリーの行き届いた魅
力的な施設でした。利用の要件は、身体障害者手帳をもち常時介護の必要な方であり
、18歳以上、原則として65歳未満の方だそうです。広いホールでは車椅子の方々が思
い思いに過ごしておられ、庭では、やはり車椅子の方が景色の撮影を楽しんでおられ
、自由な雰囲気を感じました。リハビリの先生方も常駐され、専用のコーナーが見受
けられました。居室の配置も工夫されており、ご家族がこられても休めるように配慮
され、入浴やトイレも利用者に負担がかからないよう介護内容や設備、デザインが考
え抜かれていると感じました。また、施設の職員さんに、たくさんの質問をさせてい
ただきましたが丁寧に説明して頂き、ありがたかったです。ホールに設置された水槽
で、お祭りで買ってきたという赤い金魚がヒラヒラ泳いでいるのが、美しい室内とマ
ッチして印象的でした。 次にバスは、仁井田にある身体障害者福祉ホーム「すずめ
三里ホーム」に向かいました。ここは、ケア付きのワンルームマンションとパンフレ
ットにはありましたので、かなり自立された方のためのホームなのかなと思っており
ましたが、入浴用リフトなども設置され、居室やお風呂の仕様も障害にあわせて改装
されていました。有料で食事の提供もし、ヘルパーさんも出入りするとても高機能な
ケア付きワンルームマンションでしたので、びっくりしました。季節のイベントなど
はないそうですが、食堂もあり他の居住者さんとのお話しもゆっくりできそうでした
。 居住者さんやショートステイのかたは、ここから各作業所などへお仕事に行かれ
るそうです。もちろん、そのまま居室で過ごされる方もおられます。 もしかしたら
、わたしの息子も泊まれるのではと思われるので、ショートステイの説明を聞きに行
ってみたいと思います。 さて、バス巡りは終了し半日でしたが楽しく有意義な時間
をすごすことができました。また、このような企画を立てていただけるようよろしく
お願いいたします。

§ 視力障害の方々との関わりの中で


田元 めぐみ

 皆さん、はじめまして。賛助会員の田元めぐみと申します。以前、「みちしるべ」
の編集委員でお世話になっておりました曽田美紀の妹です。その当時、姉はこちらで
の活動が生きがいのようなところがあり、皆さんに大変よくしていただいたようで、
この場をお借りして心からお礼申し上げます。
 さて、私は現在、高知市内で訪問介護のお仕事をさせてもらっています。私が初め
て視力障害の方のお宅へ訪問させてもらったのは、今から10年以上も前のことで、介
護の世界へ足をふみ入れたばかりの30歳の時でした。その時まで、視力障害の方と直
接お会いする機会がなかったため、目が見えないなんて、生活はどんなに大変だろう
か・・・自分だったらやっていけない・・・というような暗いイメージがずっとあり
ました。ところが、初めて関わった全盲のKさんは、ラジオとおしゃべりの大好きな
、ものすごく明るいおじいさんだったのでした。奥様が長期入院中で一人暮らしをさ
れており、ヘルパーが調理したものを食べてもらったり、一緒にスーパーまで歩いて
行きお買い物をしたりしていました。私が調理したものをいつもすごく喜んで「おい
しい!!」と言って食べて下さり、一緒に外に出かけても、そよ風とかお日様のあた
たかさとかに逐一感動されていました。とにかく、Kさんの心は、いつも物事の良い
部分を見ており、それを言葉にしていて、笑顔の絶えない方でした。
 その後、そして現在も、お仕事を通して何人かの視力障害の方々と関わらせていた
だいています。皆さん、お話をしてみると明るくておだやか、自分らしさを大切にし
ていて、マイペースに前向きに生活されてる方が多いなあと感じます。だから私も、
一緒にいてとても居心地が良く明るい気持ちになれるんですよね。いろいろとお手本
にしていきたい部分を発見したりします。
 私は、どちらかと言えばインドア派で、家の中にいることが好きなタイプで、あま
り活動には参加できませんが、これも「私らしさ」ということで、どうぞお許しくだ
さい。皆さんのそれぞれの今を、私も心から応援しています。
 読んでいただいてありがとうございました。

§ 弱視者の一人ボヤキ(思い出すままに取り留めなく)


             片岡 義雄

 昔、盲学校で「影を溝ごと思ってまたぎゃ、影の向こうに溝があり、落ちて・・・
。」といった替え歌がはやったことがある。
 あらかじめそのあたりに溝があることを知っていて、電柱かなにかの影をその溝と
誤認してまたいで、その勢いで本当の溝に飛び込んでしまったというおそまつ。
 これなどはなまじっか見える弱視者ゆえの失敗である。
まだ私が頑是無いお子様のころ、母が「この子はもう何にでも手を持っていく。熱い
もんやら食いつくもんやったらどうするぞね。」
 答えて私が「熱いもんやったらほのきがあるきにわかる。食いつくもんやったらう
なりゆうろうきにわかる。」

大月町の月灘付近でとれたももいろサンゴの秘密を歌ったわらべ歌。これまた幼少の
みぎり、私が97歳まで生きた祖母に「お月様は桃色かえ」ときくとごく自然に「そ
うよ」と言った。
 それからかなり大きくなるまで、ほかの人はみんなあの月が桃色に見えているのに
違いないと信じていた。
 私には出たばかりの月はほとんど黄色に見え、中天高くのぼると青白く見えるので
あるがいかがなものか。
 とはいえ、周囲の人も含めて私のような小眼球は色覚異常が少なく、人を見分ける
ため色は重要な手がかりになっている。
 服の色はもちろん髪や帽子の色、それにめがねや背の高さなどを判断材料にしてい
る。
 沖縄に行ったとき一緒に出かけた女の人たちが全員日替わりでお色直しをし大変驚
かされた。
 これぞまさに弱視者を惑わすとんでもない所行にほかならない。

 最後につたない川柳を1句。
 「おはようと答えりゃうしろでおはようさん」 (おそまつ)。

【特集】内閣告示から差別語を削除した経緯


           長谷川 貞夫(東京)
 これは、東京ヘレンケラー協会の「点字サイエンス」という雑誌に、1998年11月に
掲載したものです。

内閣告示「常用漢字表案」に差別語を発見
− 自動代筆で国語審議会全委員に差別語の撤廃を要請 −

 昭和54年3月30日に、第13期国語審議会が、それまでの「当用漢字表」(昭
和21年)に代わる、「常用漢字表(案)」の答申を文部大臣に行なった。
 これは、その後の手続きを経て、内閣告示として、今日の「常用漢字表」となるも
のであった。
 以下は、この内閣告示の「常用漢字表(案)」から、視覚障害者に対する極端な差
別語である、「盲」(モウ)の字の「メクラ」の訓読みを、いかにして撤廃させたか
の、19年前の記録である。
 この答申の2カ月余り前の昭和54年1月中頃に、近く当用漢字表に代る、新漢字
表が国語審議会から答申されるという情報が入った。
 私はこれを聞いて、特に心配になることがあった。それは、六点漢字を最初に作る
時から始まったことであった。
 現在の「常用漢字表」は、それまでの「当用漢字表」(1850字)に漢字95字
の追加とその音訓を加えたものである。当初の「当用漢字表」は、漢字だけを記した
ものであり、その読みである音訓は記してなかった。
 そのため、当用漢字の音訓など、読み方についての資料で、同じく内閣告示による
、「当用漢字音訓表」(昭和24年)を内閣告示した。
 それは、終戦後の間もないころに作られたもので、まだ障害者に対する人権意識が
徹底していなかったせいか、そこには、盲人の「盲」の字に、「メクラ」という差別
語の訓が示されていた。
 昭和48年6月18日に、その昭和24年版の改訂版である、新しい内閣告示「当
用漢字改訂音訓表」が告示された。
 しかし、この新しくなった「音訓表」にさえ、24年前と同じ差別語が示されてい
た。つまり「盲」の字における「めくら」の訓が訂正されず、そのままであり、なく
なっていないのである。
 私は、この新しい改訂音訓表では、当然差別語が削除されているであろうと期待し
ていた。
 なぜ、内閣告示に差別語が存在することが分かっていたかというと、私は六点漢字
構成の研究のために、この「当用漢字音訓表」を是非とも必要としていた。
 昭和48年6月に、昭和24年版の「当用漢字音訓表」が改訂され、「当用漢字改
訂音訓表」が官報として発行されたと聞き、早速、この告示の官報を霞が関にある政
府刊行物サービスセンターに行き、数冊買った。
 果たして「盲」の字の訓がどうなっているかに特に関心があった。
 勤め先の附属盲学校に戻ってから、健常者の同僚(河辺清高先生)に頼み確かめて
みると、何と、その差別語が依然として、そのまま残っていたのである。誠に信じら
れないことであった。
 この差別語は、歴史的には、必ずしも差別語だけとして使われたわけではない。だ
から、国語辞典などからまで、この言葉を削除すべきなどと、私は決して思わない。
 しかし、現在においては、差別語として使われ、視覚障害者に不幸をもたらしてい
る面があることを否定することはできない。
 「当用漢字改訂音訓表」は、公用文書、ラジオ・テレビ・新聞・雑誌などの報道機
関、それに学校教育における文字使用の基本となるものである。
 このような基本となる資料にまで、この差別語を、国語表記の基準として掲載する
ことが許されるであろうか。
すでに、終戦から28年も遠く離れた、この昭和48年という時代は、新聞、テレビ
などのマスコミ用語から、障害者などに対する差別語を使わないようにすることが徹
底しつつあった。
 ところが、何とこの内閣告示の有様である。
 「当用漢字改訂音訓表」に、この視覚障害者に対する差別語が、まだ厳然と残って
いた。私には信じられない事実であった。
 それから6年が過ぎて、また「常用漢字表」という名前で漢字表が内閣告示される

 今度こそ、告示の前に、この差別語があるかを確認しなければならない。
 そこで、私は、自動点訳のことで以前にも行ったことのある、国立国語研究所に、
林大(はやし・おおき)先生を訪ねた。
 先生はもちろん国語審議会委員でもある。
 早速、先生に、「常用漢字表」答申案の原案で、「盲」の字の差別語がどうなって
いるかをお尋ねした。先生は、「残念ながら、そのまま残されています」とお答えに
なった。
 そこで、私は、先生から、国語審議会で、この差別語を削除するようにご提案下さ
るようにお願いした。先生が、私の気持ちをよく理解して下さり、協力的であること
はわかっていた。
 しかし、国語審議会は、国語のあり方についていろいろな考え方と立場の人達の集
まりであり、何事も、新しいことを決めるには、相当な議論と手続きが要るようであ
った。
 私の想像では、先生は、その審議会の中で、難しい議論をまとめられる立場であっ
たのだとお察しした。だから、ご自身で、反対の予想される提案はお避けになったの
であろう。
 先生は、「あなたの目的を実現するには、49人の審議会委員に、直接にお願いの
手紙を出すのがよいでしょう」といわれた。これは、誠にありがたいご提案であった

 そこで私は思い付いた。やっと大型コンピュータを用い、点字キーで墨字が書ける
ようになったところである。まだ、一般にもパソコンもワープロもない時代であり、
ここで、私が視覚障害者であることを名乗り、点字で書いたデータを普通の文書にし
て請願すれば、きっと効果的だと。
 そこで、日本コンピュータセンターというところで、私が家で作ったコンピュータ
用の紙テープデータから、墨字の請願書をプリントアウトしてもらった。
 手紙の発送は、昭和54年1月30日であった。
「常用漢字表(案)」の答申は迫っている。私は、各委員からの返事を待った。しか
し、一通の返事もなかった。各委員は、個人からの請願には返事をしないことになっ
ていたのかもしれない。だが、どんな手紙の返事にも勝る無言の返事がついにあった

 それは、昭和54年3月30日の、国語審議会による「常用漢字表(案)」の答申
であった。
 その答申からは、見事に差別語が消えていた。
 「これでよかったのだ」。
 そして、このことは、視覚障害者のメディアである、点字の新聞や雑誌、それに、
当時のNHKの「盲人の時間」にも伝えなかった。
 だから、いわゆる盲界(視覚障害者の世界)では知られていないことなのだ。
私の手元には、第13期国語審議会の49人の委員名簿と自動代筆の手紙が残ってい
る。
 大げさに言えば、これが、自動代筆(視覚障害者のワープロ)の文字で、視覚障害
者が、政府を動かした最初のことである。

*なお、文中の林大(はやし・おおき)さんは、あの名曲「浜辺の歌」の作詞者、林
 古渓(こけい)の息子さんだそうです。

§ 私の戦中・戦後


小澤 幸泉
76年生き 祝福されもせず 
なお強くしたたかに 今朝も目覚むる

[前編] 戦争とはひもじいものである

 1944年1月8日夜遅く、私が4歳のとき、義兄は徴用された軍需工場の過労で数え20
歳、急性気管支肺炎で最後の時を迎えた。「こっぴー(私のこと)、お兄ちゃんはこ
れから、《のうのうさん》になるんだよ。おまえはまだ小さいから、お父さん、お母
さんの言うことを聞いて、大きくなるんだよ」これが最後の言葉であった。
 枕元には、東京音楽学校に行くと希望を胸に練習途中の、楽器や楽譜が残されてい
た。祖母は、私に「お兄ちゃんは《焼き場の会社》へ、行ったんだよ」と、教えてく
れた。そのちょうど1週間前の1月1日未明、同じ部屋で、義妹が生まれた。栄養不足
でお乳が思うように飲めないで、昼夜、泣き続けていた。私は、来る日も来る日も、
夕方になると、運河の橋のたもとまで、亡き義兄を迎えに、行きつづけた。「おにい
ちゃん、まだ帰ってこないね」「あした、帰るね」
 空襲がますます激しくなってきた、1945年(昭和20年)年頭、祖父の実家、埼玉県
南埼玉郡八幡村に疎開した。家畜小屋(豚や鶏)に一族親戚との共同生活を始めた。
空地を畑にして食糧を作り、前の小川では、田螺やザリガニを捕まえ、田圃で蝗を採
取して食用にした。そんなある夜、小川を隔てた木々の向こうの夜空が真っ赤に染ま
るのを祖母の背中ではっきりと見ていた(後で聞かされたが、3月10日未明の東京大
空襲だった)。翌日、焼け跡に連れて行かれたが、すっかり焼け落ちた瓦礫の山に何
とも言えない煙と匂いが充満し、そのなかを焼け残りを捜し求めている大人たちの姿
が今も瞼の底に焼きついている。それからどれくらいの月日が経ったのだろうか。
 その日も暑い夏の日差しが照りつけていた。不思議なことに、共同広場に集まった
大人たちの表情が、昨日までとは全く違って見えた。柔らかな優しい表情に変わって
いた。8月15日昼下がり、戦争が終わった日のことだった。
 やがて、それぞれ、焼け跡にもどって再建の生活を始めた。幸いにして、バラック
小屋は焼け残ったが、戻ってきていちばんつらいのは、食べるものがない。配給では
、飢え死にも同然な状態である。家族3人になった食料を確保するために、祖母は私
を連れて近郷の農家に買い出しに出かける毎日だった。お金を持っていても役に立た
ない。祖母たちの思い出と離し難い思いのなかで衣類や配給の品物などが次々と消え
ていった。1日中農家を廻り歩いてやっと手に入れた食料。待っているのは取締りの
警官。その時の、哀れな、泣きの子供の役者が私だった。
 よく、米兵が路地にやってきた。近所のお姉ちゃんがきれいな服装、お化粧をして
付いて行った。翌朝、袋いっぱいにお菓子や食べ物を持って帰りみんなに分け与えて
くれた。その前夜、何があったかは想像に難くはないだろう。私の住んでいた、この
町は、戦前は田圃や畑が広がっていたが、空襲が激しくなる頃から、たくさんの人た
ちが疎開して来た。「バタヤ部落」、「朝鮮人部落」と呼ばれていた。狭い路地のま
た奥に、一人やっと通れる袋小路が幾筋もあり、三畳一間に仕切られた部屋には独り
者や家族がひしめきあって住んでいた。
 朝早く大八車を引いて焼け跡などから金属や屑物を拾い、盗み、集め、仕切り屋に
売却し、その日暮らしの生活をしていた。ある朝、誰に気づかれることもなく身寄り
のない老人が死んでいた。だれひとり関心を示すこともない。やがて、小屋主がやっ
てきて「こんな所でくたばりやがって、いい迷惑だ」そして押入れの板で棺箱を急拵
え、遺体をギュウギュウと蹴り込み、どこかへ運び去った。家族や住んでいる者たち
の諍い(いさかい)や喧嘩は日常茶飯事だった。
 衛生状態も悪く、定期的に進駐軍が消毒にやってきて頭の髪の毛から、着ているボ
ロの衣服や下着のなかまでDDT(粉末殺虫剤)を散布された。

§ 宿毛での山崎理恵さんの講演会に参加して


時久 恵吾
 11月23日の研修会は、とても身になるものであった。 山崎理恵さんの二
女でもある音十愛さんにも会うことができたので非常に、感動したことだ。公演の最
中にも楽しそうに、何かの音楽のリズムを刻んで遊んでいる様子は、とても見ている
だけでもかわいらしくて、癒される存在でもあった。時々「ママ、聞こえてる?」な
どと話しかけていた様子は、本当に、ほほえましいと感じた次第でもある。しかしな
がらここまでたどり着くまでには、様々な苦労を乗り越えられたことが最も大きな要
因では、なかろうかと感じた次第でもある。 生命の危機・社会的な不理解・襲い掛
かる様々な困難・それに伴う家族の崩壊などにも立ち向かってきた結果が表れていた
と思う。 そんな時に、周りからの支えがあったからこそ精神的にも強く生きること
ができたのではなかろうかと感じた次第である。 もしも自分が家族の崩壊に直面し
たとき本当に、耐えることができるのか冷静に考えたとき空恐ろしいような気持ちに
なった。 後半では、村田一平さんの壮絶な人生を歩んでこられた話を聞かさせてい
ただいた。この話を、聞いていて、ふと感じたことは、7月ごろの香川県での本社研
修の講演会の模様を思い出した。 その時にも似たような状態の方の前向きな話を聞
かさせていただいたことがある。22歳の時に、渡米先の海岸で大波にぶつかって、頸
髄損傷を受けた方の話だが最初は、死ぬことしか考えていなかったそうだ。 本日の
方の話でも15歳ぐらいの時に、バイクによる交通事故により頸髄損傷を患い同じよう
な症状に見舞われていることだ。 私は、この方の話を聞いていて、二人の共通点は
、前向きに、生きることの大切さ(挑壁思考)という答えにたどり着くことができた
。 本日の二人の公演者の答えもすべて一致していたことには、非常に、驚きを、隠
すことができずにいた。 何が一番不自由かと聞かれたら本当の不自由は、日常生活
が正常に、送ることができなくなった時ではないかと思う。例えば地震や火災などに
よる災害時である。普段の生活がかけがえのない幸せかもしれないと感じた。私たち
も何かのニーズを、発信していくことが大切と感じた次第である。何を、どのように
、こんな風に、してほしいなどという形で具体的なニーズを、発信するべきではなか
ろうかと感じた次第である。あれもできない、これもできないと引っ込んでばかりで
は、何も始まらないのである。そんな状況に陥りそうなときは、周りに相談したり情
報を、求めたりすることで意外と解決することが多いものである。時には、強く、私
は、○○だからこのようにしてほしいと強く要求することも大切であると感じた。 
以前にも私の事を、書いたと思うが改めて、記しておく。私は、1973年の4月24日に
、未熟児で生まれた。そして、保育器に入れられて45日目に、医療事故により網膜が
剥がれてしまった。これにより失明したのである。 私の母親も私を連れて、海に飛
び込もうと考えていたそうだ。役場に、相談しても門前払いだったそうだ。何度も児
童相談所に、通っては、どのようにすればよいのかなどを、話し合った結果、寄宿舎
に入ることが認められたが、小さかった私にとっては、強制的に親元を離れることは
、非常に、つらかったことである。 それから盲学校でいろいろな生活をするように
なってから沢山の趣味を、会得するようになった。野球・パソコン・音楽など様々な
ことに、チャレンジすることができるようになった。軽音楽部では、シンセサイザー
を担当して、周りを、驚かせたことがあった。 卒業してから初めて、県外での就職
を、志したがあまりにもいじめがひどすぎたために、2年足らずで高知県に戻ってき
た。その後は、とあるサウナで働いたが借金を背負わされて、仕事恐怖症にかかりし
ばらくは、何もできずにいた。 その時は、実家の父親からもいじめられたことが原
因で体を壊すことが多くなり元気をなくしたことが多かった。 10年の歳月が流れて
、私の堪忍袋の緒が切れた。我慢も限界に達したころ実家を離れることを母親が決断
してくれたことで私の心が吹っ切れた。自由が手に入れられると知った私は、友達か
らパソコンを譲り受けて、いろいろなことに挑戦を始めた。 そして、今は、本当に
、訪問マッサージの仕事を見つけて、あれこれと働いている次第でもある。 本日の
感想文の中に、自分の事を、織り交ぜてしまったが勘弁してほしい。本当に、縁あっ
て、結婚することができるのならもっと自分から相手を守る力を、身に着けたいと思
う今日この頃である。 本当に、とりとめもない文に、なってしまったがいろいろな
方々に支えられて、生きているのだなあと感じたことができて、本当に、有意義な一
日を、過ごさせていただいた。

§ ちょっと一言「こんなタクシーも」


              有光 勲
 去る5月17日、大阪の日本ライトハウス情報文化センターで、7月の参院選を控
えて、点字広報政策に関する研修会が行われた。これを日本盲人福祉委員会の主催で
、点字製版に携わっているものが参加するようにということであったので、正岡夫人
とともに日帰りで行ってきた。
 当日は、点字毎日や大阪ライトハウス、点字民報社など、22施設から43名が参
加していた。点字広報の制作に際して、できるだけ点字表記を統一すべきであるとの
趣旨に基づいてのことである。点字表記について、いろいろと説明があったが、私が
やっていることとほとんど変わったところはなかった。
 ちなみに日本盲人福祉委員会とは、日本盲人社会福祉施設協議会、日本盲人会連合
、全国盲学校長会の3団体で構成する社会福祉法人である。
 しかし、今回はこの研修会の内容についての報告ではない。帰途に出くわしたちょ
っとした出来事についてである。
 17時に会が終わったので、新大阪へ向かうためタクシーに乗った。個人タクシー
であったが、後部座席に座ったとき、「タクシーにしてはいい車だな」という感じが
した。座り心地もいいし、新車独特のにおいがしていた。車が走り出して少したった
とき、運転手がこんなことを言い出した。「この車は下ろしてまだ10日もたってい
ないので、杖を当てないでもらいたい。新車に傷がつくから……」。私は驚いた。傷
がつくほどそんなに杖で強くたたいてはいない。タクシーに乗るとき、左手を正岡夫
人の肩に、右手で折りたたんだ杖と鞄を持っていた。タクシーに乗るとき、その折り
たたんだ杖がボディーに軽く接触したかもしれない。しかし、私にはそんな記憶は全
くない。頭にきた。なんといってやろうかとあれこれ思案しているうちに、思わず我
と我が身を疑うような言葉が口をついて出た。「そうですか。傷がつくほど杖で強く
たたいたような気はしませんが、確かにここに座ったとき、運転手さんのおっしゃる
ように、タクシーにしては新しいいい車だなと思いましたよ」。それに対して運転手
は何も言わなかったが、決して悪い気持ちはしなかったのではないだろうか。これが
もし10年、いや20年前の私なら、「おい、車を止めてくれ。警察を呼んでくれ。
傷がついたかどうか現場検証をやってもらおうじゃないか。中には泥だらけの靴で乗
り込んできたり、酔っ払いの客がたたいたり蹴ったりすることもあるだろう。そんな
ときどうするか?それほど気になるような車をタクシーに使うのが間違っているよ」
などといって大げんかになっていたに違いない。
 「おまえも年がいってずいぶん人間が円くなったものだな。よく成長したものだな
」「いやそうではない。年取って人間が臆病に、卑屈になっただけではないのか」な
どとあれこれ考えているうちに新大阪についた。正岡夫人もかなり憤慨していた。
 しかし「負けるが勝ち」ということもある。かなり悔しい思いはしたが後味の悪さ
は残らなかった。このことを後日、守る会の役員会で話したところ、案の定「そこで
そんなにおとなしく引き下がってたまるか」と叱責された。
 後味の悪さといえば、高知盲学校に勤務していたとき、職員会で校長を厳しく(口
汚く)追求したことがあった。それによって、私に言わせれば明らかに不正なことを
やろうとしていた校長に、そのことを撤回させることができた。今考えてみても、そ
れについては間違いではなかったと思っている。しかし、そのやり方がよくなかった
。職員会が終わった後で「どうだ、私の勝ちだ」などという浮かれた気分には決して
なれなかった。「いくら何でもあんな言い方しなければよかった」となんともいえな
い自己嫌悪に陥ったものである。自分自身でそう思うのだから、その場にいた教職員
もさぞかし不愉快な思いをしたに違いない。おそらく私の人間性が疑われたことであ
ろう。
 となると、今では自己嫌悪に陥るようなことはないかというと、残念ながらなかな
かそうもいかない。昔ほどではなくなったものの、こんな年になっても、思ったこと
をつい口走ってしまい、後悔することは今でもある。性格なので、ある程度は仕方な
いが、どんな場合でも他人の人格を傷つけるようなことになってはいけないと、常々
自分自身に言い聞かせているのである。

編集後記


 今年は、例年に比べて、インフルエンザの患者が4、5倍も多いそうです。予防の
ためには、手洗いとうがいが必要ですよね。しかし、うがいは口に含んだ水を吐き出
すところがいりますので、どこでもというわけにはいきません。その代わりにいい方
法があります。どこかに出かける際、ペットボトルなどにお茶や水を入れて持ち歩き
、それを頻繁に飲むことです。水分補給にもなりますし、のどについたウイルスを胃
に流し込むことができます。胃に入ったウイルスは、強い胃酸によって殺されます。
 早いもので、今年もまもなく暮れようとしています。編集部へのご協力ありがとう
ございました。今後ともよろしくお願いします。どうか良いお年をお迎えください。



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