片岡忠さん・追悼文集
2017年6月

目次(ページ内リンク)
はじめに  有光 勲
敬愛なる後輩、片岡忠さんに  多賀 義忠
さまざまな思い出  正岡 光雄
忠ちゃんの涙  沖 郁子
忠(ちゅう)さんとの思い出  津野 功
仲さんありがとうございました  守る会会長 井上 芳史
守る会のルネサンス、そこには忠さんがいたから  藤原 義朗
ちゅうさん、ありがとうございます  浜口 誠一
活慈仲さんの言葉  生田 行信
妻の死に顔にそっと触れてくれた人  徳永 邦弘
仲さんを偲んで  吉岡 邦廣
愚直なまでに……  堀内 佳
片岡先生を偲んで  ロイ ビッショジト
ちゅうちゃんへの思い  川田 佳子
片岡慈仲先生を偲んで  江崎 瑞枝
慈仲先生のご遺志は多くの人々に受け継がれていく  曽田 美紀
片岡さんありがとうございました  音訳ボランティア 松沢 杉
片岡さんへ、最後のごあいさつ  谷 妙子
片岡忠さんの思い出  日本盲人エスペラント協会(JABE) 会長 田中 徹二
片岡忠さんを偲ぶ 2017.5.17  鍋島 博之
衝撃を受けたあの日  有光 勲
謝辞  片岡 幸子
編集後記  発行責任者 有光 勲

はじめに


               有光 勲

 どうしようもないこの喪失感、このつらさ、残念・無念。私たちの仲間の輪から彼
がいなくなってしまったということは、未だに信じられません。   
 そんな中、今私は何をなすべきか?「そうだ、追悼文集を作ろう。そして、それを
天国の彼に捧げよう」と思い立ちました。
 早速、何人かの方には直接に、あるいは一部の方には間接的に執筆を依頼しました
。皆さん二つ返事で快くお引き受けいただきました。本当にありがとうございます。
 彼の本名は片岡忠(ただし)さんですが、鍼灸師としての施術者名は慈仲(じちゅ
う)さんです。この両方に「ちゅう」という文字が入っていますので、彼のことをみ
んな「ちゅうさん・ちゅう君・ちゅうちゃん」などと親しみを持って呼んでいました
。そのような言い方は、本文中にも出てきます。
 彼の人となりや業績につきましては、皆さんよくご存じですし、さらに、この文集
をお読みになればおわかりいただけます。
是非最後までご覧になって、彼のありし日を偲んでいただきたいと思います。

敬愛なる後輩、片岡忠さんに


                多賀 義忠

 昭和12年生まれの私は、28年に高知盲学校に入学しました。つまり私の小学1
年は、普通の歳で言えば高校1年でした。
盲学校は面白い所で、私は決して頭が良かったわけでもありませんし、勉強ができた
わけでもありませんが、2学期から2年生に進級させていただきました。そして3学
期には4年生に進級させていただきました。その4年生のクラスに彼がいたのです。
その時、算盤(そろばん)を使って掛け算を覚えているところでした。私は、生まれ
て初めて算盤を手にするのですから、正解は一つもありません。ところが、彼はもう
お手のものであるかのように、もう何年もやっているかのように、3桁に3桁を掛け
ても、4桁に4桁を掛けても、全部正解です。まあ算数に限らず、国語も、社会も全
部トップの成績でした。  
 3学期も終わりになりましたが、何と彼はもう1年4年生をやらなければならない
というのです。私は何ということか、その納得のいかない不思議な盲学校のやり方に
、まさに開いた口が塞がらない思いをさせられたものでした。 
 それはそうでしょう。いくら年齢は遅れているとはいえ、クラスでいちばん成績の
悪い私が5年生になれるのに、いちばん成績の良い彼が落第するとは、誰だって不思
議に思うでしょう。  
 ところが、それには明快な理由があったのです。つまり、私が歳を取っているから
、もうやむを得ず進級したのに対し、彼は、歳が足りなくて落第になったのでした。
それなら最初から3年生ではなかったのかと、学校に訊きたかったのですが、3年生
は全く必要なかったのです。むしろ、逆に私たちが4年生の時に5年生あるいはもう
1年上の6年生であっても、学習面でいささかの差し障りもなかったのです。  
 彼は、昭和19年の生まれだそうですが、その年の3月までに生まれていれば、私
たちとずうっと同じクラスで、一緒に卒業できたのです。つまり彼はそれだけ秀才少
年であったということです。
 私より7歳も年下でありながら、今の平均寿命からすれば、まだ10年余りも残し
て永眠されたとは、何としても残念、無念で言葉もありません。
 卒業を待たず全視協に関わるようになり、我を忘れ、家族を忘れて地元に、また中
央に尽力を注がれました。その上で、最近まで実に道理に基づいた建設的なご批判を
いただいたことは、全視協の会員一同が認めるところでしょう。  
 更に東洋医学におきまして、その発展と普及に尽力されたその姿も、みんなの認め
るところであります。私の近くからも彼の鍼治療を受けたいと、何人もの人が彼の治
療院の門を叩いているのです。中には、仕事疲れの県会議員も議会の合間を見て彼の
所に駆け込んだと言っておりました。  
 こうして仕事の上でも、常にリーダー的な立場に立って、人々のために尽力された
ことは、健常者にも勝る姿であります。
 趣味としてエスペラント語をマスターされ、その交流のために60ヶ国近くを訪問
されたことは、これまた彼ならではの有名な姿です。エスペラント語というのは、ポ
ーランドの眼科医が、戦争を憂いて世界共通の言葉があれば、戦争をなくすことがで
きるとの判断で、開発・普及させて、今各国で使用されている国際語だそうです。 
 私も若い頃からの夢で、一度外国に行ってみたいと思っておりましたが、80歳に
なった今日では、夢も空しく消えました。  
 彼の生涯は、盲人の生活を守ることが生きがいであったわけでありますから、残さ
れた我々には、何はともあれ健康でなければなりません。それが彼への何よりの報い
になるのではないでしょうか。

さまざまな思い出


正岡 光雄

昭和37年(1962年)4月、若干24歳の私は高知盲学校に赴任した。
 日本中が勤評、安保の激しい闘いに明け暮れていた直後のことであり、とりわけ勤
評での激しい反対運動の燃え盛った、高知には私は強い憧れを持っていた。闘争後に
よく見られる生徒たちの荒れもあったが、多くの者は秘めた情熱を有しているような
印象を受けた。
 私はそんな中で情熱を胸に秘めていたが、同世代でもあった生徒たちとはすぐさま
仲良しになった。
 そんな中で2名の優秀な生徒がいた。一人は片岡さん(通称忠君)それともう一人が
PTA会長の息子であった。彼らは何時もほとんど完璧な答案を提出していた。
 高知では勤評の紛争の結果ほとんどの組合活動家は処分されあるものは免職になり
、また僻遠の地に飛ばされていた。
 またそのころ、無免許按摩師に対する問題が起きていた。それは無免許業者を医業
類似行為者として県独自で一斉に有資格者としての救済を行い、さらに、その業者た
ちを全国的な統一した救済を実施しようとしていた。
 その闘いのさなかに本会の母体となる「高知県視力障害者の生活を守る会」がスタ
ートした。
 当時の役員は寺尾さん、塩見さんなどであったが、業界や盲協などと比較すると、
まだまだ少数精鋭の会であった。私(若き教師の正岡光雄)は決起した。署名活動など
で生徒たちに激しい檄を飛ばし続けたものだった。生徒たちも素直にその指示に従っ
てくれた。
 片岡さんは秀才であると同時に大変愉快な人柄でもあった。周囲の人々にあだ名を
付けてはそれを流行させるのも得意技であった。
 やがて、彼ら元気な若者である生徒たちも卒業したが、多くは「守る会」に加入し
てくれた。
 そのころの思い出であるが、私は忠君に対して「今に業界や盲協以上の大きな勢力
になるぞ、大いに頑張ろうや」と言ったものだった。
 中島、忠君の会長時代血気盛んだった私は副会長として彼らに檄を飛ばし続けたが
、彼忠君は常に生徒自体のように模範活動を展開してくれたが、今にして思うと私の
そのような活動に対し今では自己嫌悪に陥っている。
 何せ高知の会を全国必須の有能な会に仕立て上げたかったのである。彼は良き纏め
役に徹し、会を見事にリードしてくれたのであった。意見がばらばらになろうとした
ときにも水面下で意見の統一を図ってくれていた。
 彼の重い病の発表があり、私は悲しみに暮れたが、会長引退後は、私は彼の健康状
態を見つつも彼を誘って飲みに行った。
 彼は視覚障碍者運動家であると同時に東洋医学治療家としても、またエスペラント
の活動家としても全国的に大変すぐれていた。
 エスペラント関係の会参加で毎年ヨーロッパ旅行を活発に行っていたが、その旅行
の話を聞くことも私の楽しみの一つであった。彼ちゅう君は食通であり、また酒通で
もあった。旅行から帰ってくると体調不良になっていた事を思い出すが、たぶんうま
い料理や酒をたしなんだせいでもあろうか?
 彼が推奨していたのはチェコのビール、ハンガリーの貴腐ワインであった。
 二人が店に来るとどちらからともなく、話が弾んだ。
「ローマではパスタやスパゲッティー、それに赤ワイン。ウイーンではビーフのカツ
レツ。ハンガリーのグヤーシュ。」話は切りがなかった。
 今年の1月もう少し暖かくなったら、精進料理の店に行こうと約束していた。その
店では仏教の話が聞けるところだった。その約束は実現しなかったのは今では残念に
思う。
 きっとあの世で同志たちと共に楽しんでいるものと思う。 

忠ちゃんの涙


                沖 郁子

 昭和20年代の半ば過ぎ、新築されたばかりの旧黎明寮で寮生活が始まりました。
当時小学部低学年は、男の子も女の子も同じ部屋で生活していました。
 私たちは、寮母さんによく本を読んでもらいました。当時は、「少女小説」と呼ば
れる子供向けの小説がよく読まれていたようです。父親の戦地からの帰りを待ちなが
ら、母と子が懸命に生きる姿を描いたものや、黒人兵と日本女性の間に生まれた少女
が、差別や偏見の中でけなげに成長していく物語などが描かれていました。私たちは
子供なりに登場人物の心を思いやり、涙しながら聴き入りました。
 ある日曜日の午後、いつものように涙ぐみながら物語に聴き入っていました。
「忠、どうしてなきゆう」とおじいさんの驚いたような声が窓から飛び込んできまし
た。私たちが小説を読んでもらいながら涙ぐんでいたのがわかるとおじいさんは安心
されたようです。忠ちゃんはおじいさん子でした。おじいさんは、時々孫の様子をの
ぞきに来ておられたようです。
 「僕の名前は、忠義の忠という字を書く」といってから、忠ちゃんは、みんなから
「ちゅうくん」と呼ばれるようになりました。
 忠君は、上級生になってから、ブラスバンドで活躍しました。高知盲学校のブラス
バンド派遣の音楽コンクールで何度も優秀賞や奨励賞などをもらいました。何よりも
運動会で生バンドに合わせて行進できたことを私は誇りに思っています。
 「星条旗よ永遠なれ」を演奏した時、忠君はピッコロを担当していました。明るく
快活で華やかな演奏ぶりは今でも耳によみがえって来ます。
 先日、しょう早すぎる訃報に接したとき、忠君と過ごした寮生活や、学校での活躍
ぶりなどがたくさん思い出されました。その一部をここに書きました。
 安らかでありますように!

忠(ちゅう)さんとの思い出


                津野 功

 私と忠さんは、1歳違いで2学年上の兄弟のようなお付き合いを60年以上も続け
させていただきました。出会いは10歳からなので数えきれないくらい色んな事があ
りました。中でも小鳥が大好きでメジロ・雀・鳩等を飼い馴らして肩に留まらせ誇ら
しげに歩いていたのを忘れられません。
 メジロは良くはる(鳴く)のが手に入るとそれを連れて5丁目の南の、のおさ山に
行きこばん(とりかご)を木の枝に掛けその下で一日中静かな時を過ごしたものです
。捕まえたメジロは首から下をちり紙で巻き、胸ポケットに入れて帰りました。
 すずめは、学校の屋根に裸足で上がり巣子を捕まえましだが、雨漏りがすると言っ
てこっぴどく怒られました。でも、忠さんと一緒だったのでとても心強かった事でし
た。
 鳩は、小鳥屋に行き生まれたばかりの子を貰ってきて、思うように操って遊んでい
ましたが。ある時、忠さんの肩に鳩がいないのに気づき「忠さん鳩はどうしたぜ?」
と聞くと「あの鳩は言う事を聞かんき鍋にして食べたぞ」「え!…」そんな事もあり
ました。
あの頃は目の見えない者同士がうろうろ行巡っても、たいした事故にも合わず、楽し
い事ばかりだったように思います。
 またある時は、換気構の破れた処から床下に潜り込み野球のボールを拾っていまし
たが、何を思ったのかろうそくに火をつけてはいずり回っていたら、先生達が気付い
たらしく騒ぎになっていました。そんな事とは知らず何個か拾ったボールを抱えもと
来た換気溝から首を出したところが教頭の松本先生の両足の間。首根っこをつかまれ
引きずり出され大目玉!?見えない悲しさですね。
 校庭で自転車に乗って遊んでいましたがそれだけでは物足りず、昇降口から出て城
西中学校の東の道を南に向かって、口笛を吹きながら颯爽とこいでいたら、たまたま
所用を済ませ学校に戻る校長の久米田先生と出会い、忠さんだと気付くなりびっくり
仰天怒るのも忘れたほどだったそうです。その後は徐々に回数が減ったとか・・・。
 思い出は尽きませんが、守る会で嬉しかった事を一つ書かせてください。昭和50
年に入ってからだったと思いますが。点字図書館に点字印刷機が購入されました。し
かし使える方がいないので、私たちに(会長の中島さん・忠さん・津野)使って見せ
てほしいとの話があり、毎週日曜日の8時半から12時半まで守る会の案内状等書か
せてもらいました。その後も時々使わせてもらいましたが、財政的にも苦労していた
時期だったので、いつも三人で喜びをかみしめたものでした。
 もう、忠さんに会えないと思うとぽっかり穴の開いたような気持ちをどうすること
も出来ませんが、この歳になりますと現在の記憶は定かでなくても、過去の出来事は
鮮明に記憶されていますので、何かにつけ思い出しながら偲びながら、もう少しの間
前向きに暮らしてゆこうと思います。忠さん本当にありがとうございました。

仲さんありがとうございました


          守る会会長 井上 芳史

 私は1973年に徳島盲学校に入学しました。多くの方と交流を持ちたくて文理大学の
エスペラント部主催の教室に参加しました。大学生から「高知に視覚障害の片岡さん
というエスペランティストがいるよ」と教えてくれました。そんな偉い人がいるんだ
と思ったことでした。
 その後、1981年に高知盲学校に就職しました。その年に仲さんは守る会会長になら
れました。途中会長をおりた年もありましたが28年間と長期にわたり視覚障害者の自
治体採用試験、点字ブロックなど街づくりなど貢献してくださいました。病気になら
れ、2013年からは私が会長をしています。
 高知に慣れない私たちは仲さんの家族に支えられながら少しずつ慣れていきました
。仲さんは私の家族の主治医でした。娘が耳にできるヘルペスで顔面神経麻痺を起こ
した時も治療を受け回復しました。少し具合が悪くなると鍼治療を受け、4、5回行く
と楽になりました。本当にありがとうございました。
 仲さんとの思い出を2つほど紹介したいと思いますが2つとも飲み会の話になります。
 いつごろか忘れましたが土曜日に仲さん宅にお邪魔すると、モンゴルのお酒がある
から飲みましょうと誘われ、調子よく飲んでいると、どこともなく次のお酒が出てき
ました。意識がなくなり、気がつけば朝、仲さんが布団まで連れて行き、足をひっか
けて倒して寝かせたと話してくれました。
 次に新年に徳島に帰省をしていて、2日に高知に返ってきたときです。集まれる人
で新年会をやろうということになり、仲さんをはじめ5人が家に集まりました。きっ
とやり始めたのは20時ごろではなかったでしょうか。お酒も入り次第に声が大きくな
り、隣のおばさんが「うるさい、もう少し静かに」とお叱りがありましたが明け方の
4時ごろまでワイワイと飲んでいました。真夜中に電話をしてみようと携帯電話にす
ると留守電。留守電ならと好き勝手なことを言っては電話を切り、またかけては言い
たいことを言っていました。仲さんが「あなたをセイウチと命名する」家の子供が「
お年玉ちょうだい」など、後で相手方に聞いてみると20件ほどの留守電、バッテリー
もなくなり困ったと話してくれました。昼ごろにはみなさん帰宅しましたが、気分が
悪くなり何度も電車から降りた方もいたようでした。
 仲さんはパソコンやスマホなど新しい製品をすぐに購入していました。高価なもの
を買って使いこなせるか躊躇してしまいますが、やりきって使いこなせるようになる
ところが本当にすごい、コツコツと研究される方だと思います。新しい製品を見せて
いただき、本当にありがとうございました。
 仲さんゆっくり休んでください。心からご冥福をお祈りいたします。守る会の活動
を見守ってください(ゆっくり休めないかな)。

守る会のルネサンス、そこには忠さんがいたから


               藤原 義朗

 私は国際障害者年(1981年)に守る会に入会し、青年学生部長、事務局長、そして
今は一般社団法人全日本視覚障害者協議会の理事を務めさせていただいています。
 まだ若かった頃は、編集会議の帰り、青年部をどう伸ばしていったらいいか豚太郎
で一緒に悩んでいただきました。シンポジウムの前には司会やシンポジストと片岡邸
に集まり打ち合わせをしたこともありました。
守る会の節目になる打ち合わせは大抵片岡治療院の待合室だったのでした。
 その結果、女性部の方と共に育てていった「障害者と平和」学習会も15回開催す
るに至り、また、県外から講師を何回も迎えての災害講演会やシンポジウムにも取り
組みました。
 NTT104有料化反対運動では、高知県民会議の議長として、数度にわたる講演
会や集会開催ポスター運動も画期的に行い、視覚障害者のみならず多くの国民・県民
の財布を数千億円守る闘いの先頭にも立たれました。
 また、点字受験を求める運動では事務局長として、ニュースを20号まで発行、大
運動により県民世論を巻き起こす運動ができました。
 私たち若い者が先兵隊として活動するとき、そこには忠さんがいました。はったり
でなく、客観的に相談できる忠さんがおられたからこそ守る会のルネサンスを飾るこ
とができたのだと思います。多くは語られませんが、一言一言そこには重い響きがあ
りました。
 娘が2歳位の頃だったでしょうか、普段よく妻と、忠さんの話をするので、車で上
町付近を走る時4丁目あたりで「ちゅー、ちゅー」といっていたことが忘れられません。

ちゅうさん、ありがとうございます


              浜口 誠一

 本当に思い出などは、沢山あって、いろいろと考えましたが、ちゅうさんに「お礼
のてがみ」を書く形で、文集に載せていただくことにしました。
 片岡さんは、勿論僕の先輩ですので、少しは知っていました。けれども、ゆっくり
話をするようになったのは、1976年ごろ、点字図書館で夜やっていた、「読書会」(
主に小説の朗読を対面で聞く集まり)に理療科の担任に誘われて参加するようになっ
たのがきっかけでした。ちゅうさんも来られていて、休憩時間にけっこう冗談なども
言って大変楽しく当時の自分には刺激的なときを過ごせたことを思い出します。
 それが縁で、というより「それをいいことに?」教員になることを決めた自分が頼
み込んだところ、受験勉強で、英語を「一緒に勉強しよう」といってくださり、英文
解釈を教えていただきました。大変ありがとうございました。
そのとき、休憩時間も楽しい話を聞かせてもらいました。あまり障碍者問題などは話
題に出ませんでした。言っても今の浜口には早いと思われたのでしょうか。
 それより、世界のこと、クーデターで壊された、チリの民主政権のことが印象にあ
ります。知っているようでもメディアのニュースは注意していなければいけないんだ
、と思ったものでした。
 また、エスペラントのことを教えてもらったのもこのころです。
 そんな風に親しくさせてもらっていても、ずうっと「片岡さん」と呼んでおりまし
た。自分が「ちゅうさん」と呼ばせてもらうようになったのは、20年ほど前、沖縄
から高知に帰ってきてから少したったころ、近くの店に一緒に飲みに行くようになっ
てからだと憶えています。「そう、しいや。」と言われたので、違和感はありました
が、少し嬉しかったものです。ありがとうございます。
 英語を一緒に勉強していただきありがとうございます。
 エスペラントを教えていただいたのに中途半端で今になりごめんなさい。でも、あ
りがとうございます。これは、今後も続ける努力をします。
 鍼を本当に親切に教えてもらいました。自宅にお邪魔して奥さんの幸子さんにもお
世話になりました。ありがとうございます。
 どこかの詩人のようになってしまいました。すみません。
 ちゅうさんに、教えを受けたことばかりですが、自分が先にしたことは外国旅行に
少しだけ早く行ったこと。勿論、お土産と話は一杯でした。
 自分がおこがましくも教えてあげたことは、多分、ジャズの楽しさとお酒の楽しみ
ではなかったでしょうか。おせっかいで、ごめんなさい。
 ちゅうさんに沖縄の「泡盛」を飲んでもらい、お酒の相手をしてもらったことが嬉
しかったことです。
20数年前になりますが、ちゅうさんには珍しく「おいしいね!なんぼでも飲めるぜ
!」と酒飲みの自分がびっくりするほど沢山飲んでいました。翌日はけっこう疲れた
とのことでした。楽しそうに後から話していましたが、これからは、心行くまで楽し
めますね。
 ちゅうさんは、クラシック音楽が好きで、聴いていましたし、フルートを吹いてい
ました。でも、自分はジャズが好きで、ライヴに案内して、一緒に行きました。それ
は、大変楽しく。特に、2008年3月15日の「木馬ボーカルナイト」のことが思い出さ
れます。気にいってくれたでしょうか。
 今、「鍼の心」の指導を受けた自分は、健康のことを勉強してます。特に、不妊症
の治療を勉強しています。
 そして、一段落したら、新しい世界で会いましょう。自分は必ず会えると考えてい
ます。
 ちゅうさんとの思い出は沢山あるし、教わったことも数え切れません。簡単に書け
る!長くなったら、迷惑になるなどと考えてました。ところが、書き始めると、ちゅ
うさんの優しくも茶目っ気のある声が頭の底に響いてきて、こみ上げて来るものがあ
り、時間ばかりが過ぎていきました。
 最後に、誌面を貸していただき、ありがとうございます。
 ちゅうさんの声を聞きながら…。
        心の直弟子、せいうち より

慈仲さんの言葉


生田 行信

 初めて片岡慈仲さんとお会いしたのは、私が盲学校専攻科1年生の冬頃、22歳の時
でした。正岡先生、有光先生、井上先生から「障害者の問題について連続講座をやる
から来てみないか」と誘われ参加したことがご縁でした。守る会の会長だった慈仲さ
んが第1回目の開会にあたって挨拶され、その中で「僕たちが進めようとしているの
は市民とともに歩む障害者運動です」とおっしゃったことが強く印象に残り、その後
続けて参加してみようと思う動機になり、ほとんどの回に参加しました。共生社会と
いう言葉が目指すべきものとして今では普通に使われる時代ですが、当時の私には気
づいていなかった視点でしたので、新鮮で納得がいき、スーッと入ってきました。そ
の後入会した守る会で活動をご一緒させていただく中で、その言葉通り実践されてい
るのがよくわかりました。総会や学習会、自治体交渉の場などでの挨拶や発言、みち
しるべへの投稿文などでも一貫していました。街づくり点検や点字教室などボランテ
ィアサークル「ルーモ」の方達とともに取り組んでおられました。私が直接ご一緒さ
せていただいた取組は無免許マッサージ問題でした。ご自身は鍼灸専門でお仕事をさ
れておられるのですが、県師会、視協との3者懇にもあはき対策部長とともにほぼ毎
回出席され、保健所への申し入れにも休業日の木曜を利用して出てきてくれました。
視覚障害者の就労問題への取組、留学生を受け入れて外国の視覚障害者の福祉向上な
ど、その行動は出会いの時の言葉のとおりでした。守る会・全視協に私なりに今まで
関わってこられたのは、慈仲さんとその言葉との出会いのおかげだと思っています。
 慈仲さんの話し方も好きなことのひとつです。その中でも何となく好きな言葉は「
僕たちは」です。私も近頃は、相手の方の年齢に関係なく使わせてもらっています。
仕事の関係では「私」と言うこともありますが、今では妻に対しても「僕」です。
 私の好きなものを知ってくれていて、「いいものが入ったき、取りに来いや」と、
よく声をかけてくれました。美味しかったです。伏見の1回目のものは忘れられませ
ん。「上善、水の如し」の意味を少しわかったような気になりました。
 自律神経失調症や膝を傷めたとき、年に1、2回起こる腰痛など体調不良の時には
慈仲さんの治療院に駆け込みました。鍼治療のおかげでその都度回復することができ
ました。鍼で健康を回復させていただいた実体験のおかげで、鍼治療の効果を生徒に
自信を持って話すことができました。
 体調を崩されてからの人生の歩み方にとても感銘を受けました。ずっと土台として
こられた東洋医学を中心に体調の維持回復に懸命に努められたこと、お仕事や社会貢
献、人とのつながりも体調に合わせてずっと続けられたこと、私だったら多分どたば
たしてしまうと思うのですが、自分もこうできたらいいなと思う姿を見せていただい
たことは大きな励みです。ありがとうございます。
 これまで慈仲さんから受けたご恩に感謝申し上げます。心よりご冥福をお祈りいた
します。

妻の死に顔にそっと触れてくれた人


                徳永 邦弘

最初に片岡さんと知り合ったのはエスペラントを通じてのことでした。半世紀ほども
前のことです。私はその後脳血栓をわずらいまして、片岡さんからの治療を受けまし
たが、その時、点字や障害者問題についていろいろ教わりました。「盲人文化の発展
のため協力してほしい」ということでしたが、もちろんそんなおこがましいことはで
きるはずもなかったのですが、ルーモの活動につながったようです。「みちしるべ」
の墨字版の発行の手伝いをしました。いまは立派な印刷で発行されていますが、まだ
手書きの時でしたので、私の点字も少しは鍛えられたかと思っています。その中で盲
人のことなどいろいろな点で教えられ、気付かされることが多かったのです。
 私は10年ほど前に妻を亡くしましたが、その際片岡さんに、妻の死に顔にそっと触
っていただいた事を思いだします。そういえば片岡さんと私の妻は同い年だったのも
何かの縁でしょうか。
 その1年後私は心筋梗塞ををわずらい、心臓のバイパス手術をするはめになりまし
た。一度は死を覚悟した身として、彼の死にはなんともいいようがない思いです。 
 私の半生にも及ぶ長い付き合いのあれこれを思うとおおくのことがあり、無念です
が、来世では楽しく交歓したいと思います・・・耳の遠くなった自分を忘れて。

仲さんを偲んで


吉岡 邦廣

 仲さんが旅立たれてからしばらくが経ってしまいましたが、ぽっかりと心に開いた
穴はふさがりません。仲さんの背中からは本当にたくさんのことを教わりました。自
分の中での仲さんの存在の大きさをあらためて思います。
 守る会、就労の会の運動を一緒にする中で、穏やかでありながらも芯の通ったその
背中に視覚障碍者としてどのように社会と向き合うかを教えてもらいました。
 学生時代はよくお宅に呼んでいただき、ブレイルメモ、スピーチオ等、新しい、珍
しい機械や道具をいろいろ見せてもらいました。これからの盲学生には欠かせないも
のだからと仲さんが紹介してくれたブレイルメモは社会人となった今でも僕の相棒で
す。
 仲さんにやってもらったこと、教えてもらったことをそうやって数えると、きりが
ありませんが、仲さんのことを偲ぶとき、僕の心にいつも浮かんでくるのは仲さんの
人に対する誠実さ、障害を持つ仲間への思いやりの深さです。
 仲さんの足が立たなくなったと聞いて、急いでホスピスにお見舞いに行ったとき、
寝たきりの仲さんの姿に僕は悲しいショックを受けました。「水が飲みたい」と言っ
た仲さんの背中を支えたとき、痩せこけてしまった背中に涙が出そうになりました。
話をするだけでもたいへんに違いないと思いました。
 ですが、そうした状態でも夜泊まりに来てくれる幸子さんへの感謝を口にされてい
ました。幸子さんへの愛情の深さを思うとともに、病床にあっても忘れない、人への
誠実さ、仲間への思いやりの深さをあらためて感じました。
 僕たちはそうした仲さんの人柄に支えてもらいながら、今までやってきたのだと思
います。
 僕が仲さんの治療院に行くとき。それは仲さんに針を打ってもらいながら、仕事や
運動の相談を聞いてもらいたいときでした。話を聞いてもらえるだけで、僕は心が軽
くなりました。
 僕が公務員試験に合格できたとき、ご自宅でお祝いをしてくれたこと。パソコンや
最新技術の話をするたびに家に来いと誘ってくれたこと。全部仲さんの仲間を思いや
る気持ちだったのだなと思います。
 僕は仲さんの背中から学んだこと、仲さんがしてくれたことを忘れません。
 仲さん、たくさんのことを教えてくれてありがとう。
 仲さん、たくさんの楽しい思い出をありがとう。
 仲さんのご冥福を心からお祈りしています。

愚直なまでに……


               堀内 佳

 忠さんは一回り以上年長で、母校の大先輩です。
私が高等部普通科在学中、授業で先輩の職場を訪問してお話を伺う機会が有り、その
折に初めて忠さんのお人柄に接して衝撃を受けた事を、今でも鮮明に覚えています。
極めて穏やかで優しい語り口ながら、豊な知識に裏打ちされた強い信念をありありと
感じさせるお話しぶりに圧倒され、正に一目惚れ状態でした。私が母校を卒業してか
らは、同窓会や視障団体等の酒席でもご一緒する機会が増え、それと共に、上品なユ
ーモアも持ち合わせた親しみやすい先輩として、私たち後輩を導いてくださいました。
 2008年、私は悪性リンパ腫を発症しましたが、化学療法の結果、半年後には緩解を
迎えることが出来ました。その後暫くして、思いがけず忠さんから連絡を頂きました。
「佳君はもう治療は終わったかえ? 実は僕もガンに罹ってね・・・・・」
程なくしてお宅を訪ねると、何時もと何ら変わらない穏やかながら力強い口調で次の
ように話してくださいました。
「僕は食事療法と経絡治療で病気と付き合うことにしたがよ」
・・・・・。
私は何も答えることが出来ませんでした。
全身の骨髄が腫瘍化し「ステージ4で1ヶ月が山」という診断を受けながらも、化学療
法により半年で緩解を得て元気に立つ私を前に、言わばご自身の「死」と直面する状
況下でも、これまで歩んできた道を信じ貫こうという愚直なまでの信念に打たれ、
「忠さん…絶対生きてよ…絶対で」と、声を詰まらせながら手を握るのがやっとでした。

 その後も忠さんは、私が大脳動脈瘤で開頭手術を受けた時など「何か前駆症状でも
有ったがかえ? とにかく破裂前に処置が出来て良かったね」と優しい言葉を掛けて
くださるなど、折に触れて気に掛けてくださいました。
人として私の理想と言っても決して過言ではない忠さん。そんな大好きな先輩の悲報
に接し、未だに深い喪失感の中に有ります。
今後は忠さんが私の心に残してくださった大切な宝物を更に磨いて輝かせることが、
私に出来る唯一の恩返しだと思っています。
忠さんの魂が安らかであられんことを心よりお祈りし、追悼の文とさせていただきます。

片岡先生を偲んで


ロイ ビッショジト

 職場に着いて間もなく、高知のお母さんから電話があり、思いがけない知らせに驚
きと悔しさを感じました。それは、片岡先生が昨晩亡くなられたという悲しくて受け
入れがたい事実でした。様々なことが頭に浮かび、涙が溢れました。この場をお借り
して、改めて心からご冥福をお祈りいたします。
 私と片岡先生の出会いは1996年の春でした。国際視覚障害者援護協会の奨学生
としてバングラデシュから来日し、高知県立盲学校に入学した年です。私が高知に行
くことになったのは片岡先生のおかげです。先生が援護協会の会員でおられ、そして
何よりもホームステイ先として私を受け入れてくださったからです。4年間ホームス
テイをさせていただき、大変お世話になりました。
来日して間もない私は、ほとんど日本語が分かりませんでした。しかし、先生は優し
く言葉を説明し、時には理療科の専門用語も説明していただきました。私がすぐにで
も言葉の意味を調べられるように点字の辞書を用意してくださいました。また、今ま
でネクタイを付ける経験がなかった私に、丁寧にネクタイの付け方を教えてください
ました。私がホームシックにならないよう、お父さんのように接してくださいました
。おかげで私も順調に外国での新しい生活に慣れ、学習に励むことができました。
 皆さんご存知のように、片岡先生は語学に非常に関心をお持ちの方でした。私の母
語であるベンガル語にも興味をお持ちになり、たくさんの言葉を覚えてくださいまし
た。久しぶりに帰った時にも、随分前に覚えておられた言葉で話していただき、こち
らが驚くとともに大変嬉しく感じたことが何度もありました。ある日、先生は、「ロ
イ君、日本語がある程度上手になったら、エスペラント語も勉強しようね」と誘って
くださいました。そして、日本に来て2年が過ぎ、日本語もほぼ自由に使えるように
なった頃、エスペラント語の勉強が始まりました。ご自宅の講習会で先生に熱心に指
導をしていただきました。エスペラントを通じて多くの方々と交流ができ、さらに世
界が広がりました。先生と一緒に参加した蒜山の中四国エスペラント大会は今でも心
に残っています。
 2000年に、盲学校を卒業し、筑波大学理療科教員養成施設に入学することにな
りました。先生はとても喜んでくださり、息子の合格を祝うように素敵なスーツをプ
レゼントしてくださいました。今でも大事に使わせていただいております。2005
年に私は、母国の視覚障害者を支援するため、NPO法人ショプノを立ち上げました
。先生は会員になってくださり、その時から様々な形で支援し続けてくださいました
。そしてNPO活動が評価され、2014年にチャレンジ賞をいただくことになりま
すが、そのきっかけも片岡先生の推薦でした。私にとって本当にかけがえのない存在
でした。
 昨年10月に日本エスペラント大会で私が住んでいる滋賀県に来られる予定でした
。しかし、体調がすぐれないことで断念され、その後入院されました。お見舞いに行
こうと思って電話をすると、「今は退院して元気なので、すぐに来なくていいよ。ま
たゆっくり来てね。」とおっしゃられました。再び年末に電話した時も元気に話して
おられました。それから3か月半、電話しようと思いながらも時間が過ぎてしまいま
した。その間に、体調が悪くなっていったのです。何も知りませんでした。あの時、
やはりお見舞いに行っておけばよかったという悔しい気持ちが心を痛めます。こんな
に早く大切な存在を失ったこと、本当に残念です。告別式に参列し、「お父さん、最
後に会いたかったです。今までこんな私を一生懸命支えてくださってありがとうござ
いました。」と心の中で呟きました。感謝の気持ちで一杯です。

ちゅうちゃんへの思い


川田 佳子

誕生日には毎年おめでとうってメールをくれました。
幾つになったねと・・。

今年からはこないのかなって?想うとふっと涙がでます。
色々な思い出があります。本当にいろんな話をしま
した。聞いてくれました。
ちゅうちゃんちでのお酒に食事楽しい時間でした。

私の記憶のなかでずうっと、ちゅうちゃんは生き、
私にエールを送ってくれます。

いままでありがとうと、
これからも宜しくね
と。

でも、今はゆっくり休んでくださいね。

片岡慈仲先生を偲んで


江崎 瑞枝

 「透析の日を避けてエスペラント学習会を設定しました。体調が許せばご参加くだ
さい」と片岡会長にメールしたところ、「それが、急に入院になったがですよ」と本
人から電話がかかってきました。ホスピスのベッド上からです。ホスピスと聞いてお
見舞いを躊躇していたのですが、四万十町大正の久保田さん(片岡先生のいちばん真
面目な点訳受講者。今も点字板で打っています)が「いやいや、ひとりで病室におる
より話し相手があったほうが気がまぎれるき」とお見舞いを敢行しました。それに背
中を押されるようにルーモの西岡さんと病棟を訪ねたのが4月5日でした。とりとめ
もない話をしました。次の4月12日には日中友好協会の人と病室を訪ね、「片岡さ
んが日中友好協会の理事をしてくれていた時は…」などと話をしました。心配してい
たよりもお元気そうでホッとしました、とその人も安心したことでした。ではまた来
週来ますから、と軽くお別れしましたが、まさかそれが最後になるとは思いませんで
した。一週間後は告別式。今でも信じられません。
 私は25年前に高知に来ましたが、当時はまだ腰の手術後のリハビリ中でステッキを
ついて歩いていました。たまたまアースデイのイベントに行き、どこのブースだった
か、鍼のいい先生がいるよと教えてもらったのが片岡治療院のことです。さっそく鍼
とお灸の治療をお願いし、そのご縁でエスペラントを習うことになり、視覚障害者と
ともに活動するボランティアサークル「ルーモ」に入ることになりました。また当時
、青年センターで片岡先生が講師となって点字教室が開かれていましたが、無理を言
って講師のアシスタントということにしてもらい(青年センターの講座は年齢制限が
あったので)点字も教えてもらうことになりました。点訳のいちばん難しいところは
マス空けだと思いますが、片岡先生の説明は理にかなっていて的確です。国語の教員
だった私よりもはるかに文法のことがわかっていて、私なら「だいたいこんな感じで
いいでしょう」と適当に空けたり空けなかったりするところを、片岡先生は「こう考
えたほうがいいですよ」とやんわり正解を指摘します。エスペラント学習会ではフラ
ンス語をひきあいに出したり、英語ではこうらしいけど、などととにかく知識が豊富
でした。この時点で片岡先生は、私にとって主治医でもあり、エスペラント・点字の
先生でもあるという大きな存在になりました。
 片岡先生は「県視力障害者の生活と権利を守る会」の会長でもあり、そのころ私も
ルーモの代表になったので、いろいろな場面でご一緒することが増えました。我が家
でお酒を飲んだことも、県内の学校の点字体験学習に片岡先生と出かけたことも楽し
い思い出となっています。いつだったか体験学習から帰ったら片岡家の鍵が閉まって
いて、「困りましたねえ」という私の心配をよそに、片岡先生が柱をするするとよじ
登って二階の窓から家に入ったことがありました。あとで聞いたら盲学校時代は相当
なやんちゃだったということです。あれは忘れられません。
1997年に阿波池田でエスペラントの全国大会が開かれ、私も参加しました。片岡先
生の『闇を照らすもうひとつの光…盲人エスペラント運動の歴史』が刊行され、講演
もされ、私は自分の先生が全国的にも大きな存在であることを、その時改めて実感し
ました。せっっかくそんな先生に教えてもらったのに10年以上もエスペラントを中断
し、点字もいいかげんで、ルーモも活動を縮小して次世代へのバトンタッチができな
いままです。申しわけない気持ちですが、高知エスペラント会はなんとか灯を消さな
いように、ルーモも小さいながらも続けて行きたいと思っています。
 片岡先生には、まだまだやりたいことがたくさんおありだったと思います。ゆっく
り眠ってくださいと言われても、いや、こっちの世界で忙しくて、と言われるかもし
れません。エスペラントの故人の先輩たちに会っているかもしれませんね。そうであ
りますように!そして、ありがとうございました。

慈仲先生のご遺志は多くの人々に受け継がれていく


               曽田 美紀

 「守る会」の元会長、片岡慈仲先生が4月16日の深夜に亡くなられたことを、翌
17日、藤原義朗さんからの電話で知りました。その時、私は大変驚き、惜しく思い
ました。
 慈仲先生は長年に渡って視覚障がい者が暮らしやすい社会をつくるために、自らの
意見を述べ、努力を惜しまず、活動に取り組んでこられました。
 私は「みちしるべ」の編集委員を引き受けましたが、編集会は月に1度、慈仲先生
の治療院の待合室で開かれました。「みちしるべ」の編集、発行が円滑にいくよう、
慈仲先生は助言をして下さいました。
 2007年11月には、高知点字図書館が創立40周年を迎えましたが、「40周
年感謝のつどい」の式典で、慈仲先生は利用者代表としてお礼の挨拶をされました。
 2008年には「高知県視覚障害者の就労を促進する会」が発足しました。慈仲先
生は事務局長として、高知県・高知市の職員採用試験を点字で受験できるように、ま
た年齢制限を緩和するように、署名活動、ニュースの発行などを通して訴えてこられ
ました。おかげで高知県・高知市での点字による受験が可能となり、全盲の職員が誕
生しました。
 それから、医療的ケアを必要とする山崎音十愛(おとめ)ちゃんが高知盲学校の幼
稚部に入学できるように訴える活動にも参加されました。より重い障がいのある人の
福祉・教育の問題にも関わってこられました。
 また、慈仲先生はエスペラントに関する活動も大変熱心にされていました。
 私は2005年4月から慈仲先生にエスペラントを教えて貰いました。最初は「守
る会」の印刷所で講座が開かれていたのですが、講座が進んでいく間に受講生の人数
が減ってきたので、慈仲先生の治療院の待合室で講座を開くようになりました。
 慈仲先生のご著書『闇を照らすもうひとつの光 ―― 盲人エスペラント運動の歴
史』(ここでは著者名が「片岡 忠」と本名で表記されている)を読んで、エスペラ
ントが創案当初から視覚障がい者の文化の発展、国際連帯に著しく貢献してきた言語
であることを知りました。視覚障がい者に関するエスペラント団体、エスペラント関
連行事があることも知りました。エスペラントの記号(字上符)の付いた文字の点字
表記も書いてありました。「私もエスペラントの点訳をしたい」と思いました。
 スウェーデンのイェーテボリ、リトアニアのビリニュス、イタリアのフィレンツェ
などでの国際盲人エスペラント大会に参加され、世界各国の視覚障がい者、支援者と
交流されました。大会の時以外でも盲学校、視覚障がい者施設を案内して貰い、貴重
な体験を重ねてこられました。また、外国のエスペランティスト(エスペラントを使
う人)をご自宅に泊めて交流されたこともあります。これは、エスペラントを学んで
いなければ決して得られない喜びだったでしょう。
 2009年には高知で中国・四国エスペラント大会が催されましたが、その大会を
成功させるために、慈仲先生と私が会場となる国民宿舎桂浜荘を下見し、会場使用と
宿泊、食事の予約を入れました。マスコミ関係、国際交流団体などを回り後援の依頼
をしました。実行委員会を立ち上げ、定期的に打ち合わせをしました。非常に充実し
た大会を成功させることができたのも、慈仲先生のご指導、ご尽力のおかげだったと
言っても過言ではありません。
 私が松山に引っ越してからは、2012年に松山で中四国大会が催されることにな
り、慈仲先生に「視覚障がい者とエスペラントの関係について講演してほしい」とメ
ールで依頼したのですが、後日、「体調が思わしくないので講演ができない」という
連絡がありました。愛媛エスペラント会の会員も、慈仲先生の体調について気がかり
に思っていました。「『守る会』の会長も辞任されるのでは」と私は思いました。
 慈仲先生の訃報をエスペラントの関係者にメールで知らせたところ、外国の方も含
め、何人かの方からお悔やみのメールを受け取りました。お葬式・告別式にはエスペ
ラントの関係者からも弔電が送られてきたようです。
 慈仲先生のご遺志、生前の視覚障がい者の生活を守るための活動、エスペラントを
学び、使い、普及させる活動は、多くの人々に受け継がれていくことでしょう。私も
慈仲先生の安らかな眠りを祈り、彼のご遺志を継いでいきたいと思います。

片岡さんありがとうございました


         音訳ボランティア 松沢 杉
 
 片岡さんとのご縁は平成元年より、今年で二十九年目に入ったところでしたネ。
「ノンフィクションものが好き」「早い読みが好き」とおっしゃって。
 いろいろな分野の本を読ませて頂きました。限られた時間の中で、少しでも多く、
一ページでも多く、と思う気持ちは終始、自分に課してきたつもりですが、充分な事
も出来なかったでしょうに。温厚なお人柄、きっと許して下さっていたのでしょう。
感謝せずには居られません。良い時間を永きに亘って共有させて頂きました事、私に
とって大切な宝物となりました。
 三月八日朝の電話で「図書館に出向くのが無理になった、松沢さんに家まで来ても
らい読んでもらいたい」とのお話でしたが、私で良かったらと返事させて頂いた事で
した。
それから間もなく入院され、このような事になってなってしまいました。残念で仕方
ありません。今となっては唯ご冥福をお祈りするばかりです。どうか安らかにお眠り
下さい。   合掌

片岡さんへ、最後のごあいさつ


               谷 妙子

 片岡さん、数日前に会ったばかりで突然のお別れになろうとは、思いもよらないこ
とでした。
 片岡さんとは、パソコン点訳を始めたころからだったと思います。すごく静かな人
だなという印象でした。 なので、社交性のない私とはあまり会話がはずまなかった
んじゃないですかね。(お酒が入ると話せるんですが…)
 その後、図書館でのパソコン講座が始まった時、PCトーカーの使い方やキーボード
のみでインターネットをどう使いこなすかなど、私なんか全然、気付かない部分のサ
ポートをしていただき、すごく助けられました。ありがとうございます。
 一緒にお酒を飲んだこともありましたね。片岡さんはワインが好みだったようです
が、私はビール派です。また、一緒に飲める日もあるだろうと思っていました。
 最近では、イタリア語の点訳で大変お世話になりました。イタリア語のテキストの
点訳を依頼するため図書館に来館した時、ボランティアさんが誰も手を挙げなかった
事は、その中の1人として腹立たしいのと、情けなさでとても恥ずかしかったです。
何の知識もない私に「やって」と言われて、誰もやらないなら、やろうと思い、始め
ましたが、案の定、本当に難しかったです。
 でも片岡さんには、根気よく教えていただきました。全国のお知り合いからたくさ
んの情報を聞いたり、イタリア語点訳のテキストも探してくれました。本当に片岡さ
んの人徳です。
 すごく時間はかかったけれども、何とかラジオテキストと問題集やエッセイなど4
冊の点訳ができました。片岡さんの校正をずっと待っています。
 また、いろいろと教えてほしいし、おいしいお酒の話もしたいです。
 お酒の話ばかりで申し訳ないですが、あのイタリアンレストランでワインとパスタ
を一緒にまた頂きたかったですね。
 片岡さんの優しさと芯のある心は忘れません。ありがとうございました。
 片岡さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。 

片岡忠さんの思い出


日本盲人エスペラント協会(JABE)
会長 田中 徹二

1965年、東京で開催された第50回世界エスペラント
大会に私が出席したとき、活動をしばらく中止してい
た日本盲人エスペラント協会(JABE)の活動を復活さ
せる機運が盛り上がりました。この協会の経緯、そし
て、日本の盲人エスペラント運動の歴史については、
片岡さんの著書『闇を照らすもうひとつの光』をご覧
になれば明らかです。片岡さんは、貴重な資料をこの
世に残されました。
片岡さんがエスペラントと接したのは、1970年代に
入った頃ですが、名前だけの会長の私と違って、エス
ペランティストとして、抜群の実力の持ち主でした。
毎年開催される日本エスペラント大会では、分科会
としてJABE総会を持っていたので、片岡さんとはよく
お会いしました。いつもおだやかでにこやかな片岡さ
んは、発言もしっかりされていて、総会に欠かせない
存在でした。
また、世界エスペラント大会や国際盲人エスペラン
ト会議(IKBE)でもご一緒する機会がありました。2003
年のスウェーデンのヨーテボリ大会、2006年のイタリ
アのフィレンツェ大会、2007年の横浜大会などです。中でも強い印象に残っているの
は、2009年のポーラ
ンドのビヤウィストクでの第94回世界大会でした。
IKBEが先に開かれ、会場はムシナという山の中にある
保養地でした。空港から鉄道で最寄駅まで、そして遠
距離バスの乗り場までは、現地のエスペランティスト
に車で送ってもらい、あとはバスで数時間もかかると
いう辺鄙な所でした。その会場まで片岡さんは、日本
から一人で参加したのです。フランクフルトの空港か
ら、「飛行機の出発が遅れた。予定のバスには乗れない」
という携帯電話が片岡さんから入ったとき、どんなに
驚いたことでしょう。先着の日本人6名ほどで、本当
に心配しました。しかし現地の人の協力もあり、真夜
中に無事に到着し、何事もなかったかのように、翌日
の朝食のとき、エスペラントで参加者にご挨拶された
ことは忘れられません。
そのIKBEのあと、エスペラント語を作ったザメンホ
フ(眼科医)の故郷ビヤウィストクで、ザメンホフ生
誕150年記念の世界大会がありました。ここでも片岡
さんは、さまざまな催物に熱心に参加しておられました。
このポーランド大会の内容について、片岡さんは、
視覚障害者支援総合センター発行の『視覚障害』2009
年9月号で詳しく報告しています。それをお読みにな
れば、片岡さんが、いかにエスペラントに通じ、深く
関わっていたかがおわかりになると思います。
ポーランドの最終日、ワルシャワでご一緒に街を歩
くひとときがありました。そこでは、エスペラントから離れ、お仕事やご家族を大切
にしておられる様子が伝わってきたものです。
 片岡さんがお亡くなりになり、JABEも寂しくなりました。まだまだご活躍を期待し
ていた方に先立たれ、つくづく残念に思います。今の私にとりましては、ただご冥福
をお祈りするしかありません。

片岡忠さんを偲ぶ  2017.5.17


鍋島 博之

 私が片岡さんのお宅を初めて訪問したのは、1986年12月であった。この年、
私は高知エスペラント会の通信講座を高知新聞の「伝言板」で知り受講していたが、
担当の岡田泰平さんから、ザメンホフ祭が片岡さんのお宅で開催されるから出席する
よう勧められた。ザメンホフ祭とは、エスペラントの創始者ザメンホフの誕生日(1
859年12月15日)にちなんで12月中旬に集まり、総会を開いたり、懇親会を
したりするものである。普段の月1回の学習会には出席しないが、年1回この時だけ
顔を見せるという人も何人かいる。
 この時は、多田勲さんや徳永邦弘さん、岡田泰平さん、池上駿さんのほか、10人
以上が集まっていたと思う。その中には90歳の早崎さんがおられた。このような高
齢でもなおエスペラントに関心を持つ人がいることに驚いた。
 こうして私は高知エスペラント会に入り、毎月の学習会に出るようになった。
 学習会は片岡さんのお宅の鍼灸院の待合室で開かれた。片岡さんのほか、岡田さん
、徳永さんが中心だった。中級の読み物を読んだり、和文エスペラント訳の勉強をし
たりした。学習会では、参加者から文法などで疑問が出ると、片岡さんは丁寧に説明
した。他の外国語(英語、独語、仏語など)との比較を説明することもあり、ずいぶ
ん幅広く外国語を学習されていたと思う。
 岡田さんが亡くなって後、高知エスペラント会ではしばらく通信講座を実施してい
なかったが、片岡さんは高知エスペラント会の発展のためには継続的に呼びかけ実施
していくことが必要だと主張され、通信講座は私が担当することになった。片岡さん
は、文法面でより高度な説明が必要になった時など自分が援助するから、ぜひやるよ
うにと励ましてくれた。
 ある時、学習会で雑談になり、片岡さんがエスペラントをどのようにして始めたか
を語ったことがある。 
「高校生の時、教科書に載っていてエスペラントのことは知っていた。高校卒業後、
高松で日本エスペラント大会があった時(第59回大会;1972年7月)に参加し
ようとした。しかし、繁藤で土砂崩れにより数十人が亡くなり、鉄道が何か月も動か
ず、行けなかった。ある時、徳永さんの姉に『高知で徳永がエスペラントをやってい
るから訪ねてみるように。』と教えられて、徳永さんを訪ねた。徳永さんは銀行を退
職して機関誌(semanto)の発行をしていた。徳永さんが中心となり、高知でエスペラ
ントをやっている人(日本エスペラント学会(現在の日本エスペラント協会)の機関
誌購読者)に呼びかけて、10人ほど(井上章夫さん、多田勲さんほか)集まり、高
知エスペラント会を再興した。」
 高知に来たエスぺランティストで片岡さんのお宅に泊まっていった人は多かった。
2006年3月、ロシアのピアニストのアンドレイ・コロベイニコフの演奏会を他2
団体とともに開催したが、彼も片岡さんのお宅に泊まった。この時、池上さんがアン
ドレイを日帰り入浴施設に連れていったりして案内したが、高知市春野町の海岸では
、アンドレイは広い太平洋の景色を喜んで3月の寒い時期にもかかわらず服を脱ぎ泳
いだと聞いて片岡さんはじめ皆が肝を潰した。
 片岡さんの告別式の日はたまたま月1回の学習会の日だった。4人が集まって片岡
さんを偲び、片岡さんの遺志を継いで、高知のエスペラントの灯を絶やさないように
していこうと話し合った。

衝撃を受けたあの日


                有光 勲

 それは、まさに青天の霹靂であった。だれもが打ちのめされたかのように何も言え
ないのである。2013年11月の守る会の役員会の時である。
片岡会長が口を開いた。「実は、高知医大で精密検査を受けたところ、多発性骨髄腫
であるということがわかった。余命は2年だと宣告された。会長に再選されたばかり
で申し訳ないが、そういう事情なので、辞任させてもらいたい」。
 全く思いがけもない爆弾発言。なんということか。しかし彼は、まるで人ごとでも
あるかのようにおちつき払っていた。みんな一瞬息をのんだ。何も言えないのである
。私はいったい何といえばいいのか?思いあぐねた末に「いやいや、余命宣告などと
いうものは当てにならない。宣告された以上に長生きした人はいくらでもいる。完治
した例もある。守る会のことは我々でしっかりと引き受けるので、どうか希望をすて
ないで療養に専念してもらいたい」と。
 気休めでしかないとは思いつつもそう言わずにはいられなかった。
 かくして、彼の病との戦いが始まった。自らはり治療も受けながら、病院で山のよ
うに出される薬はほとんど飲まず、ある種のサプリメントを用いるなどして、現代医
学にはあまり頼らなかった。余命宣告の2年は、とっくに過ぎた。主治医も驚いてい
たという。そして毎日元気で仕事を続けていたのである。
 しかし、病魔は退散するかに見せておきながら、攻撃の手をゆるめてはくれなかっ
た。昨年10月ごろ、体調が急激に悪化し、腎透析を受けるようになった。いよいよ
最後かもしれないということで、家族もみんな集まった。
 しかし、彼の生命力と精神力は強かった。透析を始めてからは見違えるように元気
になり、また仕事に復帰していた。
 しかし、病魔の攻撃はますます執拗になってきた。昨年秋ごろから急激に体調を崩
し、今年2月、ホスピス病棟に入院した。彼が亡くなる3週間前、3月26日に見舞
いに行った。話し方はいつものように大変穏やかであった。「下半身の感覚が全くな
くなり、動かすこともできなくなった」言っていた。病魔はどうやら脊髄までも侵し
にかかったらしい。
 4月16日の夜、かなり苦しそうであったので、いろいろ処置を受けていた。しか
し、彼は「もういいです」といって右手を挙げた。それが彼の最後であった。それま
での苦しみから解放されたということであろう。大変穏やかな表情であったという。
23時50分、享年73才であった。
 今から60年前、高知盲学校に彼と一緒に在学していた。寄宿舎生活もそうだっの
で、まさに同じ釜の飯を食った間柄である。
 彼は先天的な能力に恵まれていた。まさに秀才中の秀才であった。とかく秀才とい
うものは、プライドが高く、自己中心的な人間になりがちである。しかし、彼は決し
てそうではなかった。他人を思いやる気持ち、正義感は人一倍強く、障害者差別や、
世の中の不合理といつも戦っていた。守る会の会長を何10年もつとめ、彼のなした
業績は実に大きい。それらについては本文中に多く出てくるのでここであえて私が言
わなくてもいいように思う。
 今後彼の意思を受け継いで、我が守る会をしっかりした力強い組織にしていくこと
が何よりの供養になるのではないだろうか。
 片岡会長、本当に長い間ありがとう。お疲れ様でした。どうか安らかにお眠りください。

謝辞


               片岡 幸子

 この度は夫忠のために、このようなすばらしい文集をお作りくださいまして本当に
ありがとうございました。皆様からの身にあまるお言葉、ご厚情に、ただただ感謝の
念に耐えません。
 あれは、2013年7月のことでした。エスペラントの外国旅行から帰ったとき、
脚が異様にむくんでいることに子供が気づきました。本人もかなりつらそうでした。
しかし、そのうちによくなるであろうと、そのままにしておりましたが、だんだん症
状がひどくなり、9月に近くの病院にかかりました。その後の詳しい経過は省きます
が、高知医大で精密検査を受けることになりました。その結果、あまりにも思いがけ
ないことで当の主人も私も愕然としました。多発性骨髄腫で余命は2年、抗がん剤を
使えばいくらかは延命できるというのです。私は、乗っているエレベーターのロープ
が突然切れて落下したような気がしました。
 果たしてこれからどうすればいいのか?主人は精神力の強い人間でしたから、すぐ
に平静を取り戻しました。医者が止めるのを振り切って退院しました。腎機能が悪か
ったため、近くの病院には、かかっておりました。その都度山のように大量の薬が出
されました。しかし主人はそれをほとんど飲みませんでした。思いのほか体調はよく
なり、毎日仕事をしておりました。経過がよかったため主治医も驚いておりました。
今から思えば、主人の精神力で持ちこたえていたということでしょうか。
 しかし、残念ながら奇跡は起きてくれませんでした。昨年秋ごろから、目立って体
調が悪くなり、今年2月にホスピス病棟に入院しました。そして4月16日23時5
0分、静かに息を引き取りました。覚悟はしていたものの、そのときのつらさはどう
しようもありませんでした。
 4月18日に通夜式、翌19日に告別式を行いました。それには、なんとそれぞれ
170人ぐらいの方々がご参列くださいました。さらに、多くの皆様から弔電をおよ
せいただきました。本人もさぞかし喜んでいることと思います。大変ありがとうござ
いました。
 まだ気持ちの整理がついておりませんので、十分に意をつくせませんが、これをも
ちまして、お礼の言葉にかえさせていただきたいと思います。
 最後になりましたが、今後の守る会のますますのご発展と、皆様方のご健勝を心か
らお祈りいたしております。ありがとうございました。

編集後記


 まだまだ若いと思っているうちに、気がついてみれば、私もいつのまにか、いわゆ
る後期高齢者の仲間入りをしておりました。この年になりますと、うれしいことより
も、つらく悲しいことに出くわすことが多くなります。この度のこともそうです。こ
の追悼文集を彼にささげることで、私自身このつらさからいくらかは救われるような
気がします。
 原稿をお寄せくださった方々には厚くお礼申し上げます。それらを拝読しておりま
すと、今更のように彼という人物の偉大さを思い知らされます。73才といえばまだ
平均余命はあと10年もあります。残念ですが、定められた運命だと、この事実を受
け入れざるを得ないということでしょうか。
 皆様とともに改めてご冥福をお祈りしたいと思います。片岡さんほんとに長い間あ
りがとうございました。あなたの思いは私たちでしっかりと受け継いでいくことをお
約束しますのでどうか安心してお休みください。 
合掌。
            発行責任者 有光 勲



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