みちしるべ
第252号

目次(ページ内リンク)
§ 生きて行く上で情報は命 オーテピア、ふんどし、オシャレ  藤原 義朗
§「あはきの危機を乗り切る力をつける学習会」報告  「あはき対策担当」 浜口 誠一
§ あん摩師等法19条を守る決起集会 大阪大会参加報告  生田 行信
§ 東京で あん摩師等法19条を守る決起集会(点字JBニュース 11月13日)
§「19条を守る決起集会」での閉会挨拶  正岡 光雄
§ テーマ別集会に参加して  五味 佳子
§ 顔を認識するカメラ  井上 芳史
§ 芸西村散策バスツアーに参加して  北代 麻衣
§ 私の闘病記  門脇 哲郎
§ AOKワープロを通して深まった大相撲力士との交流  永田 征太郎
§「みちしるべ」と私 古い墨字印刷機で作業に手間取ったあの頃を偲んで  故 大原 保子(2代目編集長)
§ ちょっと一言 王貞治選手の感動的な言葉  有光 勲
§ 編集後記

§ 生きて行く上で情報は命 オーテピア、ふんどし、オシャレ


藤原 義朗
 7月24日、オーテピアがオープンしました。8月5日に、見学会と「情報入手で
生活や仕事に生かす」体験交流会を行ないましたので報告します。参加者は17名で
した。

1.オーテピア「声と点字の図書館」
 坂本康久館長から説明を受けました。オーテピアは、5階建てで1階部分に「声と
点字の図書館」があること。対面朗読室は、1階だけでなく2階や3階にもにもあり
、拡大読書器もありますのでどうぞご利用ただきたいですと、話されました。キャッ
チフレーズは「すべての人を『本』の世界へ」です。
 詳しくは、すばる7月号と8月号(活字、点字、デイジー、メール版)があります
ので、そちらで見てください。
 なお、「声と点字の図書館」は、オープンスペースが多く慣れるのにちょっと時間
がかかりそうです。
 以下に、連絡先と開館日を貼り付けます。

〒780?0842 住所:高知市追手筋2丁目1?1
電話:088-823-9488 
ファックス:088-820-3218
メールアドレス:kc-120200@city.kochi.lg.jp

[開館時間]
火曜から金曜:9時から20時まで
( 土・日・祝日:9時から18時まで)
8月は土曜日も9時から20時まで開館します。

[休館日]
月曜日(祝日の場合は開館)/8月および祝日を除く毎月第3金曜日

2.情報体験交流
 生活や仕事・活動に情報入手をいかに行ない生かしているか体験交流会を行ないま
した。
◇パソコンやスマホの苦手な代表として、藤原から。
1.ICレコーダを使い仕事やメモに生かしてい
ること。
2.有給休暇を対面音訳にほとんど使い、雑誌
から下町情報まで仕入れていること。
3.苦手といっても、マイメール、マイニュー
ス、ネットリーダー、サピエ図書館ライフで
情報を得ていること。よく患者さんから、調
べてくれと頼まれること。対面とパソコンが
無いことは考えられない。「無かったら、僕
はここにはいないだろう」と、感想を話しま
した。
◇パソコン、スマホの得意な代表として、永田
先生から。
 学生時代に巡業中の元小結大翔鳳と知り合い
になり、AOKワープロで文通し、番付表やま
わしを送ってもらったことなど。
 買い物は、ネットスーパーを使って音声で注
文している。
アイホンはナビやOCRなどに使っており、何
の文章なのかはだいたい分かるそうです。
 また、頭で考えたことを文章化してくれるソ
フトなど出来たらいいなぁなどの夢や、良い
物はいろいろ出来ているが、自分に必要なア
プリの選び方が大切だと語られました。
◇「女性と生活」をテーマに、畠山俊恵さんに
語ってもらいました。
 包丁の使い方、味付けは「音が勝負」、魚を
焼く時は匂い、揚げ物は割り箸が使いやす
い、など、料理の工夫について語られまし
た。
 また、男性のいるところでは、かき氷など崩
れやすいものは食べない、など。聞いてみな
いと気がつかないこともありました。
 また、衣服や冷蔵庫の中は、輪ゴム、ビニー
ルテープを目印、安全ピン、ソックスなど触
って特徴の分かるものを選ぶ、離乳食は向か
い合って食べさせるのではなく、同じ方向を
向いて食べさせたこと、など工夫や経験が語
られもっと聞きたい思いでした。
「全盲だからこそ、オシャレには気を遣ってい
る」という言葉もありました。
このように、工夫を話す機会は楽しいし、生
かすことができます。
 また、機会を見つけて行ないたいと思います。

§「あはきの危機を乗り切る力をつける学習会」報告


     「あはき対策担当」 浜口 誠一

 さる、9月16日(日)に行われました、学習会の報告をします。
 時間は講師が東京から来ることなどの理由で、午後3時から2時間半で、場所は障
害者福祉センター(旭)で行いました。
 講師は、全視協の「あはき対策委員長」である東郷進さんを2年ぶりに招きました
。参加者は、17名でした。
内容は、
1.あはき療養費の受療委任払いについて
2.19条裁判問題
の二つをこの1回で話していただきました。
 以下、簡単に報告します。
    
0 受療委任払いを中心に
 1950年の保発4号(あたかも病院のような保険の取り扱いで「あはき」をやること
は出来ない)は、現在も効力はある。
 病院は療養の給付、あはきは療養費の支給
 療養費の受療委任払いは、施術者が患者の代理受療で、委任受療の根拠は民法にあ
り、「民法委任」といわれる。
 療養費は、保険者が「やむを得ないときに支給する」ので、ルール・仕組が決まっ
ていないといえる。
 今までの療養費の支給についての説明があった。

◯今年改正された、こと。
 受療委任払いでは、国と保険者と施術者の団体の3者協定によって「支払うべきも
のは全て支払う」というルールが出来る。これが特徴である。
違反してない場合は、払うべきものは払わなければならない、という支払いのルート
が始めて出来ることになった。(これは、いいことである)
 あはきの受療委任払いを国が実施することにしたのはなぜか。「与党の議員連盟に
業者団体が要請をして、その圧力などで認められた。」
と、一般に言われているようだが、講師は、「与党の議員たちが国の負担が増えるこ
とを厚労省にいうのでしょうか?」と話を進めて、
1986年と今を比較すると、柔整は1300億が4000億を超えるまでの3倍になり、6年前
から抑制をはかり昨年は3800億円で500億円抑制された。
一方、あはきは、鍼灸は54億円が昨年396億円と7倍になる。また、あましは、24億
円が昨年703億円になった。
合わせて、1100億円と10数倍になっている。
このことから、2012年からあはきの療養費を抑制しようとしてきた。その方向での今
回の受療委任払いの実施があると考えられる。
 支払われるルールは出来たが、その一方で、抑制する数々の仕掛けも出来たと、認
識することが重要。
 受療委任払いの導入に伴う不正対策とその他独自の不正対策がある。

◯不正対策
1.患者本人による、請求内容の確認
 患者が求めたときは明細書を出す。(有料でもいい)
 支給申請書に本人の署名捺印が必要、写しを患者に交付する。
2.医師の同意・再同意
再同意の期間は3ヶ月ごとから6ヶ月ごとに
サービスされているが、施術者による「施術
報告書」の作成が必要。視覚障害者の場合は、しなくてもいいが、すれば費用が出る

3.審査会の設置など療養費の審査体制作り

◯受療委任制度による指導監督の仕組の導入
 1.契約について
 2.地方厚生支局による指導監督
 ここに、「施術所・施術管理者」を置いて登録することが記載されており、これは
施術者でなければならない。また、これは平成32年(2020年)から具体的に決
まってくるが、来年1月から動き出すので、早く登録するほうがいいのではないか。
研修が課されたり、登録料などが数万円になると予想されている。
 その他、新しい解釈や今後の予定なども説明がありました。
 「今日の話は、目次のようなものですので、これから少しずつでもいいから、皆さ
んで学習してください。」と結ばれました。
 興味深いことはいくつも話されましたが、実務的なことになりますので、報告では
割愛して、詳細はこれからの学習に役立てていくことにします。

? 19条裁判について
 はじめに、あはき法第19条による「学校、否認定取り消し訴訟」の裁判の経過と
歴史的背景などが説明されました。(点民2017年1月増刊号参考)
 この裁判の基本は、行政訴訟で、「取り消し訴訟」として、立法裁量の問題を争っ
ているものである。裁判官の権限が強い特徴がある。
 学校を作らせないということは、経済的自由権の制限といい、さらに、視覚障害者
の生活を守るために制限するのを積極的経済的自由権の制限という。
 盲人(視覚障害者)と晴眼者の戦いではない。学校の新旧勢力による争いという見
方も出来るのではないか。
 学校が増えれば、無免許者が減るのではないかという考えもありそうだが、活動の
世界(住む世界)が違うので、無免許者がそれなりに残り続けることは容易に予想さ
れる。
 この裁判は、「法令意見」「適用意見」「運用意見」のいずれでも勝つことで完全
勝利しなければならない。一部でも国が敗訴すれば、なし崩しになってしまう可能性
がある。
 判決は、第1が物証、第2が書証、第3が証言、それに大切なのが、第4に心証に
基づいてなされることである。
マスコミをはじめ、社会がどう考えているかが影響する。ここに多くの団体による共
闘と運動の広がりと力が大切になっている。
 最後に、学習会、署名、ジャンボはがき、募金、裁判の傍聴など、これまでの運動
の到達点と今からの取り組みの予定の説明が話されました。
 今回は、簡単に報告しました。
 判決は来年夏か、再来年に出るという予想もありますが、難しく、長い運動になっ
ています。
 この学習会の録音もあります。資料も沢山ありますので、皆さんと大いに勉強して
いきましょう。
 終了後、近くの「イースト」という店で講師を囲んで参加者10名以上で、懇親会
を行い、夜晩くまで楽しく元気に語り合いました。まだまだ若い(?)守る会ですね。

§ あん摩師等法19条を守る決起集会 大阪大会参加報告


生田 行信
 11月11日(日)、大阪市西区民センターで標記の会が開かれ、高知からは井上会長
、浜口あはき対策部長、生田の3人が参加しました。大阪での行動は、川田さんがサ
ポートしてくれ、安心して会場に向かうことができました。
 あん摩課程を不認定にされた平成医療学園が、2016年7月に仙台、東京、大阪の各
地裁に提訴したことから始まったこの裁判。口頭弁論は11回を数え、地裁段階での審
理が大詰めを迎えている状況にあると言われているなか、専門家の間では来年中には
判決が出されるのではないかと予想され、予断を許さない状況にあるとみられていま
す。そのような中で、あん摩師等法19条連絡会幹事会(日盲連、日マ会、全視協、理
教連)が、国(19条を存続させる視覚障害者の立場)の勝訴をめざした活動の一層の
強化と社会へのアピールを目的に開催されたものです。同日、仙台と東京でも同様の
会が行われ、視覚障害者や業関係者が組織の枠を超えて、仙台270人、東京465人、大
阪150人が集結し、「19条守れ!」の決意を内外にアピールしました。
 大阪での集会は、第1部、民主イベントではおなじみ、大阪府立盲学校出身のシン
ガーソングライター、原田義雄さんのコンサート、第2部「裁判勝利をめざす決起集
会」を行いました。
 司会は大阪守る会の藤本勲氏、開会挨拶は近畿19条問題対策協議会の辰巳寿啓代表
、同時刻に東京で挨拶をされた竹下義樹19条連絡会会長から録音による応援メッセー
ジ、岡田康平弁護士から基調報告として、(1)本件訴訟に至る経緯、(2)原告、被告の
主張の概要と特徴、(3)運動の経過の説明がありました(テキストとBSEデータがあり
ますので、希望があれば生田まで連絡ください)。続いて、各団体からの決意表明。
日盲連は京都の副会長、斎藤信吾(さいとうよしき)氏、全視協は兵庫の宇仁菅一郎
事務局長、理教連は理事で大阪北視覚支援学校の山田雄春氏、日マ会は安田和正会長
(岡山の片岡美佐子さん代読)、愛知視覚障害者協議会からは大塚強氏から、決意表
明がありました。辰巳近畿協議会代表がアピール文を読み上げ、満場の拍手で採択さ
れました。最後は近畿協議会副代表で大阪守る会の氏野富秀氏の閉会挨拶で集会を締
めくくりました。
 挨拶や決意表明が各組織からの幅広い方々であったことと、高知を含め広範な地域
からの参加があったことは、この問題にとって大いに意義あることだったと思います
。視覚障害者の実態や主張を内外にアピールすることが大きな目的でしたから、その
後の報道がどうであったかが気になります。盲会マスコミだけでなく、一般マスコミ
を通じても啓発されたことを期待します。
 最後に集会アピールを紹介し、この裁判の争点を確認したいと思います。

「視覚障害者のあん摩マッサージ指圧師を通した社会参加と経済的自立を確保するた
めのアピール」
 わが国においては、視覚障害者にとっての職業選択の自由は実質的には未だ保障さ
れているとは言えません。他方、わが国においては、伝統的に視覚障害者の多くが鍼
灸マッサージを職業として社会参加し、経済的自立を図ってきました。ところが、戦
後に至り、鍼灸マッサージを職業として選択する晴眼者が急増し、鍼灸マッサージ業
、とりわけあん摩マッサージ指圧師(あマ指師)における視覚障害者の占有率が大き
く後退し始めました。
 そうした経緯をふまえ、1964(昭和39)年に「あん摩マッサージ指圧師、はり師、
きゅう師等に関する法律(以下、これを「あん摩師等法」と略す)」が改正され、そ
の19条1項に「当分の間、視覚障害者であるあん摩マツサージ指圧師の生計の維持が
著しく困難とならないようにするため必要があると認めるときは、視覚障害者以外の
者を教育し、又は養成するものについての認定又はその生徒の定員の増加についての
承認をしないことができる。」という規定が挿入されました。
 これに対し、平成医療学園グループ(以下、これを「原告」という)は、国に対し
、福島県、神奈川県、大阪府及び兵庫県にある養成施設及び大学に、晴眼者のための
あマ指師養成課程の設置を申請しましたが、厚生労働大臣及び文部科学大臣が医道審
議会の審査をふまえて、原告のあマ指師養成課程認定申請を不認定としました。原告
は、不認定処分は法の下の平等を定めた憲法14条や職業選択の自由を定めた憲法22条
等に違反するとして、前記の不認定処分の取り消しを求め、仙台地裁、東京地裁及び
大阪地裁に訴訟を提起しました。
 原告は、訴訟の中で、自らの営業の自由や晴眼者のための職業選択の自由があん摩
師等法19条によって不当に制限されていると主張し、他方ではわが国の社会福祉は充
実し年金等も支給されているので、もはやあん摩師等法19条は不必要である等と主張
しています。しかし、今日においても、視覚障害者にとって年金等の社会保障給付だ
けでは健康で文化的な生活を維持することは困難であり、今なお視覚障害者の多くは
、あマ指業を通して経済的に自立し、自己実現を果たしているのです。これ以上晴眼
あマ指師が急激に増加すれば、視覚障害あマ指師はこの業界からも締め出されること
は火を見るより明らかです。原告の訴えが認められ、あん摩師等法19条が廃止ないし
緩和されるようなことがあれば、今なおわが国における視覚障害者の職業的自立の中
心となっているあマ指師からも視覚障害者が締め出される結果となることは必定です

それゆえ、今日においても、あん摩師等法19条は、視覚障害あマ指師にとって必要不
可欠な規定であり、憲法22条が保障する営業の自由を含む職業選択の自由は公共の福
祉という社会的相当性による制限を前提としているのですから、同規定が憲法に違反
するなどということは絶対にないのです。
 私たちは、視覚障害者にとって適職であり、職業的意欲と生きがいを持って従事し
ているあマ指業を視覚障害者の手から取り上げられないためにも、あん摩師等法19条
を死守するとともに、原告の訴えがいかに利己的で視覚障害あマ指師の就業実態を無
視した理不尽なものであるかを明らかにし、裁判所に、原告の訴えを速やかに棄却す
ることを強く求めるものです。

§ 東京で あん摩師等法19条を守る決起集会(点字JBニュース 11月13日)


 あん摩師等法19条関東協議会主催の「あん摩師等法19条を守る決起集会東京大
会」が11月11日、東京都新宿区の「CIRQ(シルク)新宿」において開催され、関
東地域から約500名が参集した。
 日本あん摩マッサージ指圧師会安田和正会長の開会の挨拶に始まり、鈴木孝幸あん
摩師等法19条関東協議会会長(日本盲人会連合関東ブロック協議会会長)が主催者
挨拶で「この大会を契機に一層団結して国を応援し勝利しよう」と呼びかけた。
 参加団体(来賓)挨拶に続いて、日盲連竹下義樹会長より基調報告があり、この裁
判の重要なポイントや今後の流れなどについて話された。
 また、日盲連、関東ブロック、日マ会、日本理療科教員連盟、全日本視覚障害者協
議会より指定発言が行われた。
 更に基調報告の追加発表があり、会場からの質問などを受けた。
 その後、応援メッセージが披露され、アピール文が採択された。
 結びに全視協正岡光雄氏が閉会の挨拶を行い盛会のうちに終了した。

§「19条を守る決起集会」での閉会挨拶


            正岡 光雄
 皆様、本日はこの歴史的大決起集会にこのように多数の皆様にお集まりいただきま
して誠にありがとうございました。
 そして、ただ今は各会の皆々様よりの貴重な報告を云お伺いしました。大変感激い
たしました。
 私は今、思い出しています。それは戦後直後に出されたあの忌まわしい命令です。
 アメリカ軍マッカーサー司令長官からの「按摩、鍼、灸」の全国一律禁止令です。
戦後の混乱期です。大変大きな衝撃が全国に走りました。
 業団体、視覚障がい者団体を初め盲学校の教員、生徒たちも一丸となって激しい戦
いに立ち上がりました。
 私はまだ幼い子供でしたがその時の思い出ははっきり胸に刻まれております。
 さしもの「指令」も終に撤回されました。そして間もなく、法制度、教育の整備が
行われたのであります。
 昭和22年「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」制定でし
た。
 しかしながら無免許業者の横行、晴眼養成学校の増設が行われた結果、視覚障害者
の生活はますます厳しくなっていきました。
 各団体の結束した要請によって政府は「法」への19条追加案を発表するに至り、落
ち着きを取り戻しました。
 その内容は「晴眼養成学校「施設」の新設、定員増は視覚障害社の生計が著しく困
難が予想される場合には認めないことができる」というものでした。
昭和48年以降の按摩のみならず、鍼、灸学校の新設は認められなくなったからです。
 福岡柔道専門学校の新設に対して国は3度もの「不承認」決定をしたほどです。
 ところが柔整側は「職業選択の自由を侵す処分であり憲法違反として控訴しました
。国側はこの裁判に対し争いませんでしたので確定判決となりました。
 それ以降の柔整、しんきゅう学校申請に対し「承認」の決定が出され学校は急増し
、今や過当競争に陥りました。唯、按摩のみは19条があるためこの新設は認められて
おりません
 これは規制緩和策の一環でもあります。ちょうど車いすの方が駅を訪問しエレベー
タ設置を要請した結果、各駅にエレベータが設置されるようになりましたがこのこと
は障碍者のみならず一般の駅利用者にとって利益になったことによく似ております。
 さてみなさん。間もなく結審です。結審後は3か月ぐらいで判決に至ります。
 本日の成功に加えて、有利な判決が出されますように、視覚障碍者の最後の砦であ
る、「あんまマッサージ指圧師」の将来への防波堤になる「19条」を守ることを是非
とも宜しくお願いいたします。

§ テーマ別集会に参加して


            五味 佳子
今回埼玉での全視協の研修に参加させていただき、本当に色々なことが分かり、勉強
になりました。ありがとうございました。
高知から畠山さん、安芸さん、私の3人で、楽しい道中を過ごし、藤原さん親子とも
合流し、楽しく経験を積むことが出来ました。

3人の感想をまとめて報告いたします。
老人ホームへは行きたくないが、行かなくてはいけない時が来るので、盲専門の所が
欲しいです。色々なホームがあることを知って、良かったです。また、盲養老ホーム
は措置じゃないと入れないとは知りませんでした。まだまだ皆の希望に沿った施設と
いうものも少ないので、自分達が運動していったら良いものができるのではないかと
思います。今まで考えたことがなかったです。必要に迫られないと考えないので、そ
れまでに色々なことを知っておく必要があると思いました。
埼玉のお世話をして下さった方々、本当にありがとうございました。楽しいレクリエ
ーションも考えていただき、高知組の内の二人は、クイズを2回とも最後まで正解し
、地元のお菓子などをいただき、大変嬉しかったです。
帰りは台風のお陰で、もう一泊し、帰りの飛行機や電車がなかなか動かず、ハラハラ
しましたが、何とか無事に帰り着きました。とても貴重な経験でした!

最後に、私は同行援護の仕事が好きで、元気な間は続けていきたいと思っています。
視覚障害を持たれている方で、外へ出て何かをしたいという気持ちがある方の目とな
り、一緒に色々な経験をしていきたいと思っています。

§ 顔を認識するカメラ


           井上 芳史
 11月13日に就労継続支援B型事業所「てとてあさひ」で「オーカムマイアイ2」の
体験会を行いました。
 当日は視覚障害者10名、晴眼者5名、販売元2名が集まりました。丁寧に一人一人体
験させてもらうことができました。100円ライターほどの大きさでメガネのつるに装
着します。機能としてはAIカメラが顔を認識して誰であるか名前を教えてくれたり、
洋服の色・文章を読み上げてくれます。イスラエル製と聞き、軍事目的で開発された
ものかと思いましたが、車の衝突回避安全システムからできたそうです。少し特徴を
記載します。
 1.小型で軽量、インターネットと接続しなくてよい。
 2. 100名の顔を登録し、カメラの前に来ると名前を教えてくれる。
 3.腕時計を見る姿勢を取ると何時何分かを教えてくれる。
 4.90分ほど使用でき、40分で充電できる。
 5.メガネの前に文章をあげるとカメラが読み上げてくれる。
 6.バーコードの内容を読み上げてくれる(体験していないのでわからない)
 体験してみて、文章を読み上げてくれる支援機器はいろいろあるが、持ち運べるの
は役立つし、声を聞いても誰かわからないこともあり、耳元で教えてくれるのは助か
ると思います。しかし、64万円を出して購入したいかというと疑問です。
 堀内佳さんと販売元の方がラジオでデモをやっているのを録音しています。聞きた
い方は井上に連絡してください。また、1月26日にホヤのメガネ(夜盲症の対策用メ
ガネ)とオーカムマイアイ2との体験会が行われますので是非、参加してみてはいか
がでしょうか。

§ 芸西村散策バスツアーに参加して


             北代 麻衣
11月11日(日曜日)に、守る会のレクレーション部で「芸西村散策バスツアー」に
行きました。
午前9時に高知駅に集まってげんき号に乗って午前9時5分に出発しました。全部で12
人参加しました。その時はお天気もよくて温かかったです。そして時間もゆったりだ
ったのでゆっくりいろんなものを楽しめました。 ヘルパーさんがていねいに説明を
してくれたのでわかりやすかったです。それからかっぱ市を見学したり、ヘルパーさ
んと一緒に琴ヶ浜でまつぼっくりを拾ったりしました。とっても楽しかったです。
芸西の「喜ら功」のお弁当屋さんに行ったけど、閉まっていたので とっても残念で
した。
すぐ近くのローソンのコンビニによってお昼のお弁当として私は肉の入った巻き寿司
とつくねを買いました。とっても おいしかったです。「ヤ・シィパーク」で買った
生のゆずジュースもおいしかったです。そのあと、芸西村の喫茶店にいってチョコレ
ートケーキとアイスティーを食べたり飲んだりしました。
高知駅に到着したのは午後4時30分でした。そこで解散しました。

§ 私の闘病記


門脇 哲郎
私は31歳の時に甲状腺機能亢進症を発症しました。甲状腺の機能や病気のことは、
ご存知の人も多いと思いますが、本題に入る前にどんな病気か少し説明させていただ
きます。甲状腺は、のどぼとけの下にあり、長さが4cm位の小さな臓器ですが、体
のあらゆる組織の新陳代謝を促す働きをします。ホルモンの分泌が多くなり、全身の
新陳代謝が活発になり過ぎることで起こる病気を甲状腺機能亢進症と言います。動悸
、息切れ、手足の震え、汗をかく、体重の減少などの症状が現れます。代表的な病気
にバセドウ病があります。逆に分泌が少なくなり、全身の新陳代謝が鈍ることで起こ
る病気を低下症と言います。無気力、倦怠感、むくみ、抜毛、便秘、体重の増加など
の症状が現れます。代表的な病気に橋本病があります。橋本病は、発見した日本人の
名前が付けられています。病気の原因は、良く解っていないようですが、ストレスや
自己免疫物質が関係していると考えられています。治療方法は薬などの内科治療、外
科手術、放射線治療があります。発症比率は、男性1人に対して女性は5人と女性の
発症率が高くなっています。私が体の異変に気づいたのは、のどが頻繁に渇くように
なり、少しの運動でも動悸や息切れが激しくなって心臓に負担がかかっていました。
また、たくさん食べても、エネルギーの消耗が激しく、体重が半年間で20Kgも減少し
ました。1年間位は、薬による治療を続けていましたが、手足が麻痺するなど病状が
悪化してきたため、日赤病院で甲状腺の切除手術をすることに決めました。手術をす
るのには、ホルモンの分泌量を抑えて、症状の安定と体力をつけることが必要でした
。そのため、1か月間は、薬による治療を続けました。入院中は、仕事からも、妻か
らも逃れて、のんびりと過ごしていました。こんな入院生活ならいつまでも続いてほ
しいと願っていましたが、手術の日が近づくにつれ、憂鬱な気分になってきました。
そんな時、同室の一人が麻酔が効きにくい人もいると不用意に漏らした一言が、私の
気持ちをより一層不安にさせましたが、麻酔のことは、この後の文章を読んでいただ
ければ、取り越し苦労に終わったことが解っていただけます。手術の当日は、家族や
親戚の人たちが激励に駆けつけてくれました。「頑張って」の声に見送られて、手術
室に入りました。麻酔をかけられ、数字を数えるようにと言われて、1、2と数えた
ところまでは覚えていましたが、その後は全く覚えておらず、あまりの効きように医
師は、麻酔の量を間違えたと思ったかも知れません。目覚めたのは、4時間後の手術
が終了した直後でした。多少の痛みはありましたが、痛みを感じることは、生きてい
る証と思い安堵しました。しかし、その後が大変でした。数日間は、上を向いたまま
の状態で、首や体を動かすこともできず、背中や腰が痛くて辛かったです。手術後は
、本館の病室に移りましたが、当時の本館は、古い建物で、信じ難いことに病室には
、空調設備がなく、自前の扇風機で暑さをしのいでいました。2週間後に退院するこ
とができましたが、病気が快復するとあっという間に、元の体重に戻ってしまい、二
度とないチャンスを無駄にしてしまいました。痩せるのには、もう一度病気になるし
か方法がないようです。私の首には、手術痕があります。女性にとって手術の傷跡が
残ることは、気がかりなことです。最近では、治療や手術の技術も進歩しており、ネ
ットを活用するなどして病院や医師などの情報を集めて、治療や手術を受けに出かけ
ていく人もいます。甲状腺の異常によってもたらされる症状は多岐に渡っており、症
例数の多さや人体に及ぼす影響の大きさに驚きました。改めて、甲状腺の役割の重要
性を認識しました。気になる症状があれば、早めに医師の診察を受けてください。血
液検査などで判明します。手術から40年が経過しましたが、ホルモンの分泌を正常
に保つため、現在でも、薬の服用を続けています。甲状腺の病気とは、一生闘い続け
ていかなければなりません。また、加齢に伴い、他の病気の治療で、病院に通うこと
が多くなりました。皆さんも健康に気を付けて元気に過ごされることを願っています。

§ AOKワープロを通して深まった大相撲力士との交流


永田 征太郎
 去る8月5日(日)、学習部の企画で「声と点字の図書館」見学と「視覚障害者の情
報入手体験交流」が新しくオープンしたオーテピアで行われ、私も参加しました。後
半の体験交流の中で私が話をさせていただいた内容の一つとして、AOKワープロを通
して一人の人物との交流が深まったというエピソードを紹介しました。「そのことに
ついて詳しく記事にせよ」と有光編集長から要請を受けましたので、以下に記す次第
です。
 その人物との交流に関する詳しい中身については、私がまだ学生時代(長崎県立盲
学校高等部普通科所属)の弁論大会で発表した原稿をこの後に載せますので、そちら
を参照していただければと思います。今回はそれに関連するエピソードも含めて、少
し話を広げてみたいと思います。
 私が交流した人物とは、大相撲力士である元小結・大翔鳳昌巳(ダイショウホウ 
マサミ)さんで、本名は村田昌巳さんという方です。出身は北海道札幌市で、所属は
立浪部屋でした。
 出会いのきっかけは後の弁論原稿を参照していただければと思いますが、この交流
を通して、私は多くの貴重な経験をさせていただき、人と人とのかけがえのない絆を
結ぶことができました。たとえば、実際の土俵に上がって中を自由に動き回ったり、
断髪式に出席して髪にはさみを入れさせていただくなどといったことは、一般人では
めったに経験できるものではないと思います。
 この交流の中で、私から大翔鳳関へ手紙を送る機会がありましたが、その際に学校
にあったAOKワープロを使って仮名漢字混じり文を自力で作成していたため、とても
深い思い入れがあったのです。日常の使用文字は点字でしたが、大翔鳳関ご本人に直
接読んでいただくためには墨字で文書を作成する必要があるという思いもあり、一生
懸命内容を考えながらキー入力した記憶があります。
 また、大翔鳳関が膵臓癌で亡くなられた後の話ですが、この交流の模様をテレビで
取り上げていただけるという話が持ち上がり、24時間テレビに生出演するという経験
までさせていただきました。平成12年8月(私が普通科2年)の番組で、「大翔鳳と
全盲の少年」というコーナーでした。出番は番組2日目の朝8時台だったと思います。
前日から上京して当日を迎えました。
 当時の24時間テレビは、チャリティー・パーソナリティーとしてモーニング娘。が
担当することが多かったので、テレビ出演が決まったとき、モーニング娘。に直接会
えるんだと密かに胸躍らせたものでした。しかし、いざ蓋を開けてみると、なんとモ
ーニング娘。ではなくV6(ブイシックス)!! 非常にがっかりしたというネタを今
でもときどき話すことがあります。V6ファンの方がいたらごめんなさい!
 番組出演の瞬間は、おそらく今までの人生で最高の緊張でした。アドリブで何か話
さなければならないというシチュエーションであれば、何一つコメントできなかった
かもしれません。幸いなことに、中身が天国の大翔鳳関に向けて点字で書いた手紙を
その場で読み上げるというものでしたので、なんとかミッションをこなすことができ
ました。緊張のせいで自分が何をしているのか、あまり自覚がないまま手紙を読んで
いたように思いますが、その中でもいまだにはっきりと記憶にある情景が一つありま
す。それは、私の右側に並んで座っていた徳光和夫さんが手紙の内容を聞いてすすり
泣いている雰囲気を感じ取ったとき、「あー、本当に24時間テレビに出ているんだな
あ」と実感したものでした。24時間テレビではお馴染みの光景ですね。
 そして、その翌年、私が普通科3年時に全国弁論大会(2001年 大阪)に出場
し、このエピソードを以下の原稿内容で発表しました。全国大会ですから、これも緊
張感たっぷりであることに変わりはありませんが、24時間テレビに比べれば、まだ少
しマシだったような気がします。原稿の後半で「多くの人に見守られながら」という
件が出てきますが、「見守られながら」のフレーズをかまずに言えるか、非常に気を
遣った記憶があります。大翔鳳関が天国から応援してくださったのでしょうか、結果
は全国3位でした。
 私がこの交流を通して経験できたこと、感じたことは数知れず、今までやこれから
の人生にとってかけがえのない財産になったことは言うまでもありません。そして、
それをわき役としてサポートしてくれたAOKワープロに大変感謝しています。

※ 過去の全国弁論大会から

ひとつの出会         
普通科3年  永田 征太郎
 私は長い間、一人の力士とおつきあいしてきました。その力士の名前は元小結、大
翔鳳関です。
 初めての出会いは、平成4年11月30日、私が小学部4年生のときでした。その
頃から、私は相撲に興味を持ち始め、それを知っていた知り合いが、大相撲九州巡業
で、私が住んでいる諫早にも来ることを教えてくださったのです。
 私と両親は、早速、力士がいらっしゃる喫茶店へ向かいました。そして、たくさん
の力士の方とお話したのですが、その中でも、自ら私の手をとって大銀杏に触れさせ
てくださったり、とても親切に接してくださったのが、大翔鳳関だったのです。
 そのとき、私は初めて力士の体の大きさ、力強さ、逞しさに触れて、すぐファンに
なってしまいました。また、その場で、数日後に福岡の八女で取り組みがあると聞き
、すぐ両親と行くことに決めました。
 そして、その当日がやってきました。大翔鳳関の取り組みが近づくにつれて、だん
だんドキドキしてきました。いよいよ、その取り組みが始まると、家族一丸となって
一生懸命応援しました。その結果、私たちの応援が届いたのか、相手に押し込まれな
がらも、大翔鳳関が逆転勝ちを収めたのです。
 このときも大翔鳳関に声をかけてもらいました。そして、全ての取り組みが終わっ
た後、土俵にも上がらせてもらうことが出きました。土俵の中を一周ぐるっと回り、
その広さに驚いたことを覚えています。
 このことがあってから、私はますます相撲に興味が湧き、よくテレビを見て応援す
るようになりました。大翔鳳関からは毎場所のように番付表が送られてきました。手
紙と一緒に浴衣なども送ってくださいました。一方、私の方からもお礼と応援の手紙
を送りました。
 しかし、大翔鳳関は、やがて膝を悪くされ休場される場所が多くなりました。休場
されているときはテレビをつけてもおもしろくないので、あまり見なくなりました。
そして重病を患われ、力士として復帰されるのが難しくなり、ついに一昨年の7月1
日に引退されました。とても残念でした。
 10月に入ってから、断髪式が行われました。私のところにも招待状が送られ、父
と二人で上京して出席しました。
 式の会場は、大勢の招待客や関係者で埋め尽くされていました。順々に髪にはさみ
を入れていき、ついに私の番になりました。すぐ近くで挨拶をすると、はっと気が付
かれたように、「わざわざ遠い所からありがとう。」と言って、とても喜んでくださ
いました。断髪が終わると、ご本人から挨拶がありました。
 「1日でも早く病気を治して、僕のできる範囲で後進の指導に勤めていきたいと思
います。僕の挨拶が終わったら、もう治療に専念します。涙は先程までで終わりです
。これからは、また笑顔で頑張っていきたいと思います。」
 この挨拶を聞いて、私までとても勇気づけられました。嬉しく思いました。そして
少しでも早く治ってもらいたいと強く思いました。
 しかし、病気は思っていたより悪く、ついに一昨年の12月4日、多くの人に見守
られながら他界されました。まだ32歳の若さでした。とても短い一生です。私はく
やしくて仕方ありません。
 その後しばらくして、ずっと大翔鳳関のそばで支えていらした方からお手紙をいた
だきました。そこには、闘病生活の様子や、最後まであきらめずに頑張られた様子が
書かれていました。そして、今私はこの方とメールの交換をしながら、お互いを励ま
し合っています。
 大翔鳳関は、どんなに苦しいときでも、どんなにつらくても力強く戦われた方でし
た。そして心優しい方でした。私もそれを見習いながら生きていきます。
大翔鳳関ができなかった分まで、いろいろなことに挑戦して生きていきたいと思います。

§「みちしるべ」と私 古い墨字印刷機で作業に手間取った        あの頃を偲んで


         故 大原 保子
            (2代目編集長)
 * 大原さんは、今年7月2日、病気のため逝去されました。これは、2008年
12月に発行しました「みちしるべ200号記念誌」に投稿してもらったものです。
彼女は長い間、点字版を読みながら録音テープをつくってくれておりました。大原さ
ん、ありがとうございました。改めてご冥福をお祈りし、ここに掲載させていただき
ます。

 私が大上俊子さん、恒石彩子さんと一緒に編集部に入って最初に出されたのが、会
報18号でした。当時から隔月発行だった「みちしるべ」が200号を迎えたのです
から、あれから30年も経ったのですね。驚きです。彼女たち2人は家庭を持って2
、3年で編集部を去っていきましたが、なぜか力不足の私が その後も長く編集部に
残り、200号のうち半分くらいの「みちしるべ」と関わることに なりました。で
すので、思い出すことはいろいろありますが、ここでは墨字版印刷の思い出を中心に
書いてみたいと思います。  
 その頃(1980年代の前半)、印刷機は盲ろう福祉会館に置かれていました。編
集部内外の皆さんが仕事を終えて集まってくるのが7時半前後。まずはファックスの
機械による原紙の焼き付け(機械のことはまるで分からないので、藤原さんに教えて
貰いました)から始まるのですが、この作業は1枚 7、8分かかるのです。焼き付
けの終わったものから輪転機にかけて印刷し、それを何人かで2つに折っていきます
。次にそれを表紙から順にテーブルに並べ、1枚ずつ集め、ホッチキスで綴じて出来
上がるのですが、全て終わるまでに3日はかかりました。機械が 古いこともあって
、作業がスムーズに進まなかったり人の集まりが悪かったり、いつだったかは総会を
次の日に控えてその議案書の印刷が間に合わないのではということもあったりで大変
でした。それまでも印刷を手伝ってくれていた母がその様子を見て、時間のかかるフ
ァックスの作業を昼間のうちにしてくれることになり、印刷も1日か2日でできるよ
うになって随分助かりました。  
 そしていつの頃だったか、印刷機が廃棄処分されることになり、それまでのように
みんなで集まって作業をすることもなくなりました。その後の記憶ははっきりしない
のですが、1つだけ私の治療室に印刷した紙を届けて貰って母の目を借りながら「み
ちしるべ」を作ったことを思い出しました。それがどのぐらいの期間だったかも定か
ではないのですが、治療ベッドいっぱいに紙を並べ1人で1枚1枚集めたあの頃のこ
とが今となっては懐かしい思い出です。  
 今は守る会独自の印刷所もでき機械も新しくなって印刷そのものは速くなったよう
ですが、その後の作業は私たちの頃と変わっていないので、点字版、墨字版合わせる
とやはり3日はかかるとのこと、大変ですね。  
 現在「みちしるべ」は点字版、墨字版、テープ版、そして私も時々覗いてみるので
すがホームページでも見ることができます。会員の皆様にはこのいずれかの方法で是
非「みちしるべ」をお読みいただきますよう、願って点筆を置くこととします。

§ ちょっと一言 ーー 王貞治選手の感動的な言葉 ーー


            有光 勲
 私は、プロ野球には全く関心がありません。ですから、プロ野球のことについては
何もわかりません。そんな私ですが、巨人の王選手が、世界的な新記録を成し遂げた
ホームラン打者であるということぐらいは知っています。
 これは、本人に直接聴いた訳ではありませんが、彼が、ホームランを打ってホーム
ベースを踏むとき、ガッツポーズをしながら大喜びするようなことは決して無かった
といいます。それはなぜか?「そこには、私にホームランを打たれて悔しい思いをし
ているピッチャーがいる。そんなところで大喜びするのはそのピッチャーに対して失
礼である。私はホームランを打たせていただいてありがとう。申し訳ないという気持
ちを常に持っていたからだ」というのです。私は、この話を聴いて大変感動しました

世界的なこのホームラン打者は、人格的にも大変優れた方だったんですね!
 また、同じく巨人のあの有名な長島選手が、せっかくホームランを打ったのですが
、ファーストベースを踏み忘れたために、ピッチャーゴロのアウトにされたというこ
とがありました。そのとき、そこにいたピッチャーはどうだったでしょうか? 思わず
苦笑はしたかもしれませんが、まさか相手の失敗につけ込んで大喜びするようなこと
は無かったと思います。
 ところで、話は変わりますが、以前に盲学校で盲人卓球(サウンドテーブルテニス
)の試合がありました。男女それぞれのチームに4人いたと思います。なんとそのと
き私は優勝しました。しかし、それは私の実力ではなくまぐれ当たりということなの
で、大喜びするようなことはありませんでした。しかし、そのとき、私は王選手のよ
うに負けた人のことを思いやる優しい気持ちを持っていたでしょうか? 恥ずかしなが
らそれは無かったように思います。勝負ですから、試合に臨んでは、もちろん不正行
為はいけませんが、とにかく勝つことだけを考えればいいですね。ここで自分が勝っ
たのでは相手に気の毒だなどと行った仏心を出していたのでは矛先が鈍ってしまいま
す。しかし、大切なことは、試合が終わってからは負けた人の悔しい気持ちを思いや
るという優しい心を持つことで人間として必要なことではないでしょうか。私はこの
王選手の言葉からそのことをつくづく思い知らされた次第です。
 * サウンドテーブルテニス(STT)について……以前は盲人卓球といっていまし
た。ピンポン球の中に小さな鉛玉がいくつか入っていますので、それを振ったりころ
がしたりするとがらがらと音がします。このピン球を台の上をころがしながら、その
音を聴いてラバーのついていないラケットではじきます。台の上にはネットが張られ
ていて、その下をピン球を通しながら打ち合います。ネットにピン球が触ればアウト
になります。ラケットの角度などいろいろと細かな規則がありますが、ここでは省略
します。

編集後記


 今年、もあとカレンダーが1枚となってしまいました。 今年一番つらく悲しかっ
たニュース、「おねがいします。もうゆるしてください」、たどたどしい平仮名で書
かれていました。今年3月、東京目黒のアパートに住む5才の女児が、父親の虐待に
よって殺されました。母親も荷担していたといいます。なんということか、私には娘
はいませんが、5才の女の子といえば、父親にとっては目に入れても痛くないほどか
わいいはずではないのか。このニュースを聴いたとき、人ごととはいえ、あまりにも
その子がかわいそうで、思わず涙ぐんでしまいました。日本は先進国だといわれてい
ますが、日本の不健康な、病んでいる部分を見せつけられたような気がしました。来
年こそは、こんな耳をふさぎたくなるような、悲しい出来事が起こらないよう願うば
かりです。
 今年も編集部へのご協力いろいろとありがとうございました。来年も引き続きよろ
しくお願いします。どうかよいお年をお迎えください。



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