みちしるべ
第253号

目次(ページ内リンク)
§ 博多ラーメンを食べに全視協福岡大会に行きましょう!  井上 芳史
§ 第14回あはき運動交流会(和歌山)参加報告  永田 征太郎
§ 盲学校が90歳の誕生日を迎えました  山崎 辰雄
§ 共感と協力が社会を変える  オーテピア高知声と点字の図書館  館長 坂本 康久
§『みちしるべ』との関わり、及び近況報告  曽田 美紀
§ 視覚障害者向け機器展示室「ルミエールサロン」  金平 景介
§ 視覚障害者の墨字への憧れと意欲を開発の力にして  (  株)高知システム開発営業部 宇賀 喜彦
§ あのころが懐かしくて  大上 俊子
§ さすが女性参政権発祥の地、高知はすごい! 「第64回日本母親大会in高知」(2018.8/25・26)  畑山 佳代
§ 人生に負の経験など無し  堀内 佳
§ 手と頭を使う料理は一番のぼけ防止  田處 恵子
§ 言葉を通して感じること  ロイ・ビッショジト
§ ちょっと一言 「OK」の語源は?  有光 勲
§ 編集後記  〜 退任のご挨拶 〜  有光 勲

§ 博多ラーメンを食べに全視協福岡大会に行きましょう!


         井上 芳史
 2月16日〜17日と全視協全国委員会、18日は手をつなごう要請行動が東京で行われ
ました。仕事の都合で全国委員会しか参加できませんでした。特記事項を報告します


 1.第34回福岡大会:5月31日(金)〜1日(土)と社員総会、1日(土)〜2日(
日)と視覚障害者交流集会がクラウンパレス北九州で行われます。2日の分科会の「
お買い物」ではスマホやタブレットを使って商品のバーコードを読み取り情報を得た
り、アマゾンでの注文など簡単に買い物をする方法、無人レジやキャッシュレスにつ
いての対策を話し合います。出し合い話になるかもしれませんが、これからの社会を
見通した分科会ではないでしょうか。また、音声による道案内システムを体感し、可
能性について話し合います。閉会行事では盲学校の先生による「落語で考える笑いと
コミュニケーション」も楽しみです。守る会から補助も出ますので北九州の夜を楽し
みませんか?
4月20日が申し込み締め切りとなっていますので気をつけてください。

 2.今後の全視協大会:2021年は新潟、2023年は奈良で行われます。新潟の組織か
ら「強い反対の意見もあったが、どうせやらないかんのやったら早いうちにやって終
わりにしよう」と報告がありました。美味しい地酒を飲みながら日本海のお魚を食べ
るのも魅力的ですね。

 3.一丸となって取り組む運動:身体障害者の等級で視力の和で決められていたの
が2018年に「よい方の視力」に改められた。視覚障害者の自書については障害者差別
解消法により一定の成果があると思われる。ドコモの新規契約の際にサインをしなく
てはならない事例があるが、総務局に相談してもらえば解決する。上記2点は一丸か
ら外すことになりました。

 4.あはき19条裁判:あはき法19条では「視覚障害者の生活が困窮している時
には晴眼養成学校の新設は認められない」とあり、晴眼養成学校は職業選択の自由に
違反する違憲であると国を相手に訴えた裁判も終盤となってきた。2016年9月から25
回の口頭弁論が行われた。今後、反論の機会が設けられたり、証人が採用されたりし
て結審に向かうのではないかと考えられる。更なる署名活動やカンパに取り組んでほ
しいと提起があった。
 次回の全国委員会は8月31日(土)〜9月1日(日)となりました。

§ 第14回あはき運動交流会(和歌山)参加報告


             永田 征太郎
 1月19日(土)から20日(日)にかけて、和歌山県で開かれた会に高知から1名で
参加してきましたので、以下に報告します。「次世代の視覚障害者にあはきのバトン
を繋ぐために」の名の下、テーマとして「仕事を語る」が今回の主題でした。

1.1日目
 1日目の午後は、日本理療科教員連盟会長の栗原勝美氏による基調発言からスター
トしました。理療科生徒の実態が多様化していることや卒業・就職にスムーズにたど
り着くケースが減っていることなど、理療科を取り巻く厳しい実態の話が中心でした

 1日目の午後から2日目の午前中にかけては、「仕事を語る」と題して、あはきに
おけるさまざまな業種に従事している人たちがそれぞれの業務内容や悩んでいること
について発表し、それに対する協議を深める内容でした。
 開業の立場からは、複数人で経営する事業所立ち上げに関する課題と助言がありま
した。複数で経営する際にはリーダーと責任の所在を明確にしておくこと、時間を有
効活用してお互いの技術向上をしっかり行うことなどの助言がありました。
 ヘルスキーパー従事者(KDDI勤務)からは、上司の理解・対応が非常に良好であり
、電話受付などの余分な作業に追われることなく施術に集中できていること、稼働率
を上げるために、来られた人には十分な満足感を実感して帰ってもらう努力をしてい
ることなどの話がありました。

2.2日目
 午前中は前日からの継続で「仕事を語る」が行われました。訪問マッサージに従事
している女性からは、トイレ休憩は移動中にコンビニなどで済ませなければならない
不便さ、昼食はなるべく安く抑えたいがファストフードに頼れば健康面で不安がある
ことなどの悩みが出されました。
 午後は、記念講演「橿原市のあはき柔整等施術所の広告の適正化に向けた行政指導
について」と題して奈良県橿原市健康部副部長の加護剛氏の講演が行われました。療
養費の不正請求に関する生々しい話など、聞きごたえのある内容でした。また、一般
市民に対する情報提供の目的から施術所一覧の各戸配布なども行い、業者に対しては
、その一覧に掲載されるには不正行為のないクリーンな業者でなければ掲載しないと
いう対応もしたようです。そして、現在関わっておられる動きとして「あはき、柔整
施術所等の広告ガイドライン策定検討委員会」に参加されており、例えば「治療院」
という言葉の使い方については、「永田治療院」の用法は難しいが「永田鍼灸治療院
」なら良いだろうとする方向で検討している話がありました。

3.おわりに
 最後に、今回の交流会に参加して感じたことを記しておきます。一つ目は、交流会
実施に向けては現地の理療科教員が全員参加して運営したと聞き、自分たちの身近な
問題として理療科教員が積極的に関わろうとする意識がみられたことです。そして、
もう一つは配布された資料の中にホテルの部屋内の案内や自動販売機の中身の紹介が
あったり、2日目朝食はホテルの食事を利用するのに大変だろうということから、サ
ンドイッチなどが現地の実行委員から各部屋に配布されたことなど、おもてなしや配
慮が多く感じられたことでした。和歌山ラーメンも食して盛りだくさんの2日間でした。

§ 盲学校が90歳の誕生日を迎えました


          山崎 辰雄
 今年、盲学校は創立90周年を迎えました。
昭和4年2月20日、文部大臣より高知県立盲唖学校の設立が認可され、この日が創立記
念日とされています。学校の沿革史をみてみると、明治41年には高知県師範学校に盲
唖部が附設されたり、大正13年には知事の認可を得て私立盲学校が設立されていたり
と、100年以上前から視覚障害者に対する教育機関が設けられていることが分かり、
その歴史の長さが伺われます。このように長い歴史を持つ盲学校の90周年の節目とし
て、本年、2月3日(日)に記念式典・記念コンサート・祝賀会が、学校及び城西館を会
場に行われました。

 記念式典には、県教委や元校長をはじめとする来賓29名、生徒・PTA・教職員・同
窓生など、総勢約160名が参加し盛大に行われました。物故者に対する黙祷から始ま
り、浦宗義人さんが実行委員会を代表し昔のエピソードを交えての挨拶、八木学校長
の式辞、高岸教育次長の教育委員会挨拶、細木病院理事長の祝辞などのあと、長年、
盲学校の教育活動に協力・支援いただいた、ライオンズクラブや能津小学校また盲学
校教育振興会の5団体に感謝状が贈呈されました。最後に、鵜川亮太さんから感謝を
込めた生徒代表挨拶がありました。約1時間の式典でしたが、厳粛な雰囲気の中にも
、心温まる挨拶の言葉や盲学校を大切に思う気持ちに溢れた式典でした。

 記念行事は、皆さんもご存知の卒業生、堀内佳さんの記念コンサートが行われまし
た。記念式典とは雰囲気もガラリと変わり、堀内さんのお話しや歌詞から学校の歴史
も感じながら、温かさのある時間を過ごしました。歌詞の一部に卒業生が作ったくす
のき寮の寮歌を含め歌った「思い出」、校舎改築時に旧木造校舎が解体される様子を
歌った「校舎」、現在在籍している生徒を思い歌った「ありがとうの天使」、歌詞の
すばらしさなどを語りながら歌った「校歌」など、全7曲の大変すばらしいコンサー
トでした。

 当日、17時30分からは城西館に会場を移して、記念祝賀会が92名の参加で盛大に行
われました。大野同窓会副会長からの実行委員会挨拶、橋本特別支援教育課長の挨拶
、井上PTA副会長の挨拶、田所次男さんの乾杯の発声や鏡割りのイベントもあり、大
いに盛り上がりました。宴席のあちらこちらで、昔話やこれからの盲学校の話しなど
に花が咲き、活力が得られる有意義な時間を過ごすことができたと思います。最後に
、生田同窓会会長の中締めで祝宴を閉じました。

 私事ですが生徒及び教員として24年、人生の半分弱を盲学校に育ててもらった一人
としても大変感慨深い節目でした。中途視覚障害者として盲学校の門をくぐった私は
、これまで恩師や級友また同窓生等からたくさんのことを学び、共に、喜び・苦しみ
・楽しみ…、その中で多くの力をいただき大変感謝しています。県内の視覚障害を有
する方々の拠り所として、これからも盲学校が存続・発展していくことを願い、微力
ながらその一翼が担えるよう努めていくとともに、同窓生をはじめ多くの方々と協力
していきたいと思います。

§「共感と協力が社会を変える」


    オーテピア高知声と点字の図書館 館長 坂本 康久

 視覚障害者の生活と権利を守る会の皆様、いつもお世話になっております。昨年7
月のオーテピア開館から、この2月で7ヶ月が経過しました。まだ、1年もたっていな
いのですが、開館以来、各種イベント、講演会,視察見学など本当にあわただしく時
間がすぎていった感じです。

 リニューアルした声と点字の図書館では、「すべての人を本の世界に」をキャッチ
フレーズに、視覚障害、学習障害、高齢・病気等で小さい字が読めない方、寝たきり
や上肢が不自由で本をもてないなど、幅広く、読書が困難な方を対象に録音図書、点
字図書、マルチメディアデイジー図書など様々なバリアフリー図書で読書を支援して
いくことを重点事業としています。

 先月、高知桜ライオンズクラブさんより、46台の録音図書再生機をご寄贈いただき
ました。
開館してまもなくのころ、ある会員さんが、来年の結成25周年記念事業でオーテピア
になにか役立つものを寄贈したいというご相談にこられました。録音図書や様々な理
由で読書が困難な方がいることなどをお話させていただくと、「初めてそういったこ
とをお聞きした。会員の中にも病気で読書が難しい人もいる。是非、協力したい。」
といってくださり、高知ライオンズクラブや国際ライオンズクラブ記念財団への働き
かけなど、お骨折りいただき、多数の録音図書再生をご寄贈くださいました。ご寄贈
も大変うれしかったのですが、一番うれしかったのは、会員の皆様に、様々な障害等
で読書が困難な方々に、いつまでも読書を楽しんで欲しいという声と点字の図書館の
思いに共感いただいたことです。

 数年前話題になった「サピエンス全史」という本では、なぜ今の人類(ホモ・サピ
エンス)がこれほど繁栄しているのか。他の動物や絶滅した他の人類とどこが違って
いたのかということについて、著者のノヴェル・ノア・ハラリは、何百、何千万人規
模で「共感し、協力する能力」を持ったことだといっています。
 本自体にバリアがあって、そのために読書が困難な人がいることについて、社会の
ほとんどの人は知っていません。多くの人が、この問題を知り、社会的な課題として
考えるようになれば、図書館だけでなく出版社や新聞社,書店、パソコン、タブレッ
ト等の情報機器などいろんなことが変わっていくと思います。
 今後、読書バリアフリー法の制定など、社会も少しずつ変わっていくように感じて
います。微力ではありますが当館も少しでも役に立ちたいと思っています。
これからも、どうかご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

追伸)
「サピエンス全史」は点字・デイジー・テキストデイジー版があります。興味のある
方は声と点字の図書館にリクエストしてください。サピエ図書館ご利用の方はダウン
ロード可能です。

§『みちしるべ』との関わり、及び近況報告


              曽田 美紀

 有光先生が今期限りで『みちしるべ』の編集長を退任されることを知り、残念に思
いました。
「本当にお疲れ様でした」と思っています。2017年6月には、守る会の前会長、故・
片岡忠さんの追悼文集が発行されました。これも、有光先生のご尽力なくしてはでき
なかったことです。あのすばらしい文集は、片岡さんへの何よりの供養になったので
はないでしょうか。

 私は2004年、有光先生に「『みちしるべ』の編集委員になってほしい」と頼まれ、
編集委員を2011年8月まで務めてきました。『みちしるべ』の編集、印刷は私にとっ
ての生きがいでした。主に墨字版の編集、レイアウトを担当しました。点字製版、印
刷の方法を有光先生に教えていただきました。そのおかげで、私は独りでも『みちし
るべ』の点字製版、印刷ができるようになりました。墨字版の印刷は速くできるので
すが、後で1セットにまとめるのが手作業であるため、時間がかかりました。
 点字の原稿を墨訳することもしましたが、原稿をテキストに読み込んだ後で単語・
文節ごとに一つ一つ網掛けをして漢字かな混じりの文字に変換しなければならないの
で、時間がかかりました。特に人名の漢字は調べなければなりませんので、苦労しま
した。
 また、音声(カセット)版の録音をする時には、間違えることが許されないので大
変緊張しました。それでも終わった時には緊張が解け、安心しました。今では、音声
版はデイジー(デジタル録音図書)になっているでしょうか。

 私は高知声と点字の図書館の点訳ボランティアにも参加していますが、数学・理科
記号、図形などの専門的な点訳もできるようになりたいと思います。3月には高知で
利用者さん、職員さんとの交流会が開かれますが、遠方なので残念ながら参加できま
せん。松山でこのような交流会が開かれたら参加するつもりです。

 ここから、近況報告をします。
私は2015年4月から放送大学の選科履修生(学びたい科目だけを学ぶ学生)として、
主に自然科学、健康・医療に関する学問、語学を学んでいます。今年の4月には全科
履修生になって、4年制大学卒業の資格を取ることを目指します(「自然と環境コー
ス」に所属します)。学ぶことに年齢の制限はありません。

 それから、今年の4月28日から5月5日には、高知新港にも入港したことがあるクイ
ーン・エリザベスでのクルーズに行き、広島、釜山、長崎を回ります。外国船に乗る
のは初めてなので、特に言葉の面で不安ですが、楽しみにしています。
それではまた、『みちしるべ』でお会いしましょう。          (2019年
2月)

§ 視覚障害者向け機器展示室「ルミエールサロン」


              金平 景介  

 皆様、こんにちは。ルミエールサロンの金平です。視覚障害者向け機器展示室ルミ
エールサロンは、平成13年に高知県立盲学校内に開設され、今年で18年目をむかえま
す。ルミエールサロンでは、身体障害者手帳で給付を受けることのできる補装具・日
常生活用具など、見えにくい、見えない方が便利に使えるグッズなどを約500点展示
しており、毎年約300名の方が来室されます。また年間10ヶ所以上で出張機器展示会
をおこなっています。機器の紹介や相談などは、視覚障害生活訓練指導員(歩行訓練
士)が対応しており、実際に試して自分に使えるものを選ぶことができます。販売は
行っていませんが、申請のお手伝いや購入先の紹介などをおこないます。開設以来、
多くの方からご希望をいただいていた家電製品の紹介も昨年度より三菱電機様のご協
力により、音声対応の電子レンジ、液晶テレビ、炊飯器の展示をしています。来室が
困難な方への訪問事業も行っていますのでお気軽にご連絡をください。

【展示品例】
・白杖:使用される方の見え方、身体状況、使用環境などによって選定します。
・拡大読書器:字や写真などを拡大する機器、携帯型と据置型があります。
・音声時計:時刻、日付、曜日、温度、湿度等を音声で知らせてくれます。

 先月、オーテピア声と点字の図書館で第5回ルミエールフェスタが開催されました

ルミエールサロンでは、開設以来、見学者の皆様から販売を希望するご意見をうかが
っております。年に一度ではありますが、オーテピア声と点字の図書館と協力し、こ
こ数年毎年販売会を実施することができております。最新の機器や便利グッズなど実
際に手に取って体験、購入できる場として今後も継続していきたいと思っております


最後にルミエールフェスタの時に人気でした機器について紹介をします。
@ オーカムマイアイ2 AI視覚支援デバイス
見たいものを指さすだけ!文字を読み上げたり、人の顔や物、紙幣、色を音声で知ら
せます。100円ライター程度の大きさの本体を、メガネのツルに取り付けて使用しま
す。見たいものを指さすか、本体に指で触れるとカメラが起動し、撮影した画像を音
声で説明します。文字の読み上げ、人の顔や物、紙幣、色を音声で知らせます。
A HOYA MW10 HiKARI 暗所視支援眼鏡
夜盲症の方々のための暗所視支援眼鏡。暗所や夜間の環境下に、より明るい視界を提
供します。HOYA独自開発の低照度高感度カメラで捉えた像を、明るい映像として目の
前のディスプレイに投射する、眼鏡タイプのウェアラブルデバイスです。暗闇の中の
わずかな光を増幅させ、対象物の色彩を自然に再現します。この二つの眼鏡はルミエ
ールサロンに展示はしていませんが、高知県内の眼鏡店などで体験することができま
すのでご興味がある方はルミエールサロンまでご連絡ください。

視覚障害者向け機器展示室ルミエールサロン
088-823-8820(担当:金平、日浦、中川)

§ 視覚障害者の墨字への憧れと意欲を開発の力にして


        (株)高知システム開発営業部 宇賀 喜彦

 私は(株)高知システム開発に、平成7年に入社いたしましたので、勤続24年にな
りました。業務が営業担当ですので、東京や大阪をはじめ全国各地の視覚障害者の施
設などを訪問することが、主な仕事のひとつとなりました。
ところが、視覚障害者の世界で仕事をするのが、初めてでしたのでとても不安でした
。そこで、社長から紹介されていた、当時高知県立盲学校教諭の有光勲先生に、どの
ように視覚障害者の方たちと接したら良いのか、アドバイスをいただこうと思い、入
社間もない頃に盲学校で、有光先生とお会いしました。
 有光先生からの一つ目のアドバイスは、視覚障害者は、目が不自由なだけで、考え
ていること、その要望(やりたいこと)は、晴眼者と何ら変わらないというものでし
た。二つ目のアドバイスは、そうは言っても視覚障害者は、見えない・見えづらいと
いう現実はあるから、名刺に点字を打ちなさい、というものでした。そしてその場で
、名刺に点字を印刷するための亜鉛原版を作製してくださいました。
 私は、この原版で早速名刺に、会社名・名前・電話番号を印刷し、この点字入りの
名刺を持って出張することにしたのでした。出張の行き先は初めての所ばかり、会う
方たちも初めての人たちで、緊張と不安感でいっぱいの連続でした。そんな中、この
名刺を持っていることで、有光先生が一緒に居てくださるように思えて、どんなに勇
気づけられ、私を支えてくれたことだったでしょうか。あの亜鉛原版は今も私の机の
引き出しの中にあって、私の仕事ぶりを、見守ってくれています。

 話は変わりますが、私が大勢の視覚障害者の皆さんとお会いして思うのは、当社の
製品を使って、実に大きな仕事をしたり、趣味に生かしてくださっているユーザーが
いらっしゃるということです。その方々からの共通のお話は、墨字を読み書きできる
ようになったことの喜びなのです。これまでは、点字だけが頼りだったのが、当社の
ワープロやメール、アドレスソフト等を使って、自分の思いを自由自在に発信してお
られることが、とてもよく伝わってきます。

 お陰様で、当社は、昨年設立30年を迎えました。そして、その記念誌を『高知シス
テム開発設立30年のあゆみ』、サブタイトルを「視覚障害者の書きたい・読みたい願
いに寄り添って」と題して発行することができました。これに寄稿された7人の方々
も、その喜びと意義をふんだんに書いておられます。私は、これを見たときも、当社
の仕事がこんなに視覚障害者に役立っているのかと、しみじみ感じたものです。この
記念誌は、日本点字図書館のサピエ図書館から、音声デイジーやテキストデイジー、
点字データで提供されています。また、弊社製品ユーザーは、AOKメニューの「マ
イサポート」の「サービス・サポート」のAOKよさこい通信で、編集長の朗読でお
聴きいただけます。ご一読いただければ幸いです。

§ あのころが懐かしくて


       大上 俊子

 みなさん、こんにちは。賛助会員で、岐阜県恵那市在住の大上俊子です。内陸に位
置する岐阜県の冬は、厳しい寒さはあたりまえ。でも、今シーズンは雪もほとんど降
らず、室内の朝の温度もマイナスになることもなくて、まさに暖冬そのものです。寒
さは大の苦手の私にとっては大変ありがたいのですが、これが地球温暖化の影響かと
思うと、ちょっと複雑ですね。
 さて、前号のみちしるべ(252号)で、永田さんの弁論大会の原稿を読ませてい
ただきました。一人の力士との心温まる友情を綴ったその原稿は、とても感銘深く、
心に沁みるものでした。その頃の永田さんは、ちょっとした有名人だったんですね!
 全国盲学生弁論大会と言えば、恥ずかしながら私にも忘れられない思い出があるの
です。
永田さんの原稿を読んでるうちに、まだ若かったあのころが急に懐かしく思い出され
ました。
 それは、1971(昭和46)年のこと、もう48年も前のことになるのですね。高等部の
弁論大会でみなさんに選んでいただいて、学校代表として第40回全国盲学生弁論大会
に出場することとなったのです。弁論の内容については、この後の原稿をお読みいた
だくとして、若い全盲女子の揺れ動く気持ち、それは当時も今も大きく変わりはない
はず。共感いただければ嬉しいです。
 大会は、10月22日日本点字の考案者、石川倉次の生誕の地、静岡県浜松市の浜松盲
学校で、全国24校の代表が集まって行われました。当日は航空自衛隊浜松基地の航
空機を使っての訓練が大会の妨げになるということで、中止されたと、私はかなり後
になって知りました。
 私と付添いの森国裕子先生が高知を出発したのは、20日の夜でした。みなさんもご
存じのとおり、当時はまだ瀬戸大橋もない時代。高知から本州に渡るには、かなりの
時間と労力を要したものでした。私達も夜行列車や連絡船など、何回も乗り継いで、
浜松に着いたのは、たしか21日のお昼を過ぎていたと思います。関西から東に行った
ことのなかった私には、とにかく遠かった。今はあたりまえの新幹線も飛行機もその
ころの庶民にとってはまだまだ高値の花でしたからね。
 大会前日の前夜祭では、夕食を取りながら参加者の自己紹介をしたのですが、みな
さんそれはもう手慣れたもので一人で5分ぐらいしゃべった人もいたくらい。私はと
言えば、人前で話をするなんて大の苦手、自分のことをどんなふうに紹介したのかさ
え記憶にありません。それでも、「これはとんでもないところに来てしまった」と後
悔しきりだったことだけははっきりと覚えています。
 そして当日、私は4番目の発表でした。「そうだ、学校の行動で練習したとおりに
スピーチすれば、高知に帰れる」、そう自分に言い聞かせるとすこしは気が楽になり
ました。舞台まで誘導してくれた女子高生(おそらく本校の生徒さんだったでしょう
)の「がんばってくださいね」の一言がとても嬉しかったです。
 成績発表では、自分が優勝者として名前を呼ばれるという予想だにしなかった出来
事に、頭の中は真っ白。何が何だかわからないうちに、表彰式や点毎のインタビュー
を受けるなど、あわただしく時間だけが過ぎていきました。まさにそれはこれまでの
人生最大の驚きだったと言えるでしょう。
 本来ならその日のうちに高知に帰るはずでしたが、急遽予定変更となり、主催者で
ある点毎本社のある大阪での1泊をプレゼントしていただくことになりました。今は
上位入賞者は中国への研修旅行ですけどね。
 数日間緊張の連続でしたが、妙にはっきりと覚えていることがあります。それは、
点毎の担当の方との夕食の席で、私の生まれ故郷「芸西村和食」という地名に「和食
なんて珍しいねえ。小松さんは和食が好きですか?」なんて聞かれておもわず苦笑し
たものでした。
 2018年度で87回を数える、この歴史ある大会に出場できたことは、私にとってはや
はり大きな自信となり、また励みにもなりました。かけがえのない、人生の宝物です

 弁論大会の原稿をそれなりのものに書き上げるにあたっては、特に渡辺先生には大
変お世話になりました。「これは誰の原稿や?」などと言われもしましたが、芸西村
でもまた、現在でも自宅開業をし、私なりに実践はしてきたつもりです。これからも
体調に気をくばりながら、1日でも長く治療師として頑張っていけたらと思う今日こ
の頃です。

ある感動
           小松 俊子
 私は今、卒業を数ヶ月後に控え、将来に対する期待と不安のいりまじった複雑な気
持ちで、残り少ない学生生活に名残をおしんでいます。でも、私たちの仕事である、
この三療に対してだけは限りない誇りと喜びを感じているのです。といっても、ずっ
と以前からこのような気持ちでいたという訳ではけっしてありません。いや、むしろ
そのまったく正反対だったといってもよいでしょう。視力障碍者なるがゆえに職業選
択の自由が奪われ、盲学校でも理療化教育しか受けられない現状に、強い抵抗と憤り
を禁じ得ませんでした。又、「按摩」という言葉にもどうしてもなじめず、陰気で暗
い自分の将来を想像するたびに何かほかにもっと良い仕事はないものかと真剣に思い
悩んだことでした。
 ちょうどそのころ、一人の盲女性が正式の電話交換手として一般企業に就職したと
いうニュースを耳にしたのです。私は急に目の前が開けた感じでおもわず拍手したほ
どでした。「そうだ、私もやってみよう。」そう心に誓い、希望に胸を大きく膨らま
せたものでした。ところが、なんということでしょう。会社が倒産したため、何の保
証もなくせっかくの職場を失ったと聞かされたのです。それと同時に、既にある電気
関係の盲人専用の工場の作業も、一定感覚の中でペダルを踏むような単純労働にすぎ
ないことも教えられ、私はもう怒りを覚える気力さえなくしてしまいました。
 そんな私に学習への意欲と生きる希望を与えてくれたのは、臨床実習で稽古台にな
ってくださる患者さんたちでした。
 昨年の夏休みのことです。一人のお婆さんが不自由な足を引きずりながら私の家へ
訪ねてきました。その人は下半身の循環傷害で、夏でも足は冷たく、いつもしびれて
いて、いくら医者にかかっても一向に良くならないと言うことでした。気の毒に思っ
た私は両足を一生懸命マッサージし、その後ツボを選んで数か所鍼治療をしてあげま
した。するとどうでしょう。そのお婆さんは「お姉ちゃん、足が温こうなった。血の
流れとるのがようわかる。いままでこんなことはなかったのに。」と言って涙を流さ
んばかりに喜んでくれたのです。「えっお婆さんほんとですか。ありがとう。本当に
ありがとう。」私はおもわずそう言ってしまいました。嬉しかったのです。嬉しくて
嬉しくて、ひとりでに涙がこぼれたほどでした。「そうだ、この仕事に一生を捧げよ
う。これほど人が喜んでくれるすばらしい職業がほかにあるでしょうか。」私はその
ときはっきりと決心したのです。それからの私の生活は急に忙しく、活気に満ちたも
のとなりました。
 現在私は歩行クラブで一人歩きの練習や、家庭科クラブで調理の実習など、日常の
生活訓練を積む傍ら、自立開業を目指す同じ仲間たちと共に漢方クラブに入って経絡
治療を中心とした東洋医学の研究に励んでいます。実践をなによりも重視するこのク
ラブでは週1回の学習会のほかに、土曜日ごとにこの道の先輩を訪ねて直接実技の指
導も仰いでいます。おかげで、最初のころは何がなんだかさっぱりわからなかった中
国の古典もすこしは理解できるようになり、臨床実習にも一段と張り合いが感じられ
るようになりました。
 中国の古い医学書に次のような意味の言葉が書かれてあります。「下医は病をなお
し、中医は人をいやし、上医は国をじす。」私もただ病気を部分的にとらえるのでは
なく、患者さんの身になって心と体の全てを理解し、精神誠意治療にあたりたいと考
えます。できるだけ治療室から出て地域の人たちとも交わり、病気がどのような社会
環境の中からおこるのか、それをなくするためにはどうすればよいか。上医へ近づく
ための勉強を続けてゆくつもりです。
 そういえば、幼いころ私は看護婦になりたいという希望を密かに持っていました。
クリミア戦争のとき、敵味方の区別なく傷ついた兵士を必死で看病したナイチンゲー
ルの姿に深い感銘を受け、私もまたいつの日にか白衣纏うことを心に誓ったのでした

 私が開業を予定しているふるさとの村は、憎しみのぶつかりあう戦場とはまるで逆
の静かな寒村ですが、しかし、そこにも急激な時代の変化に取り残された多くの病め
るお年寄りたちがいるのです。私は今このような人々のために、理療師という名の白
衣の天使として献身できることに限りない喜びを感じ、決意をあらたにするしだいです。

§ さすが女性参政権発祥の地、高知はすごい! 「第64回日本母親大会in高知」(2018.8/25・26)


             畑山 佳代
 「みちしるべ」を愛読されているみなさん、こんにちは。私はもと盲学校教員の畑
山佳代と申します。初めての投稿です。盲学校には今から26年前に、高教組(教職員
組合)の執行委員で半専従として、学校と組合両方の仕事をこなすという生活で5年
間勤務させて頂きました。当時は点字に悪戦苦闘し、盲人卓球や野球で生徒と汗を流
し、また、おそるおそる生徒の針治療の実験台になったことなど、懐かしく思い出さ
れます。当時の同僚で大先輩の有光さんから原稿の依頼を受けて、昨年高知県で初め
て開催され大成功を収めた「第64回日本母親大会in高知」の報告とお礼を兼ねて引
き受けさせて頂きました。
 現在は母校小津高校の保健体育教員を退職後、高知県母親運動連絡会の会長として
母親運動をはじめ、県労連(労働組合)の女性部や年金者組合など、憲法と平和とく
らしを守り、子どもとお年寄り(自分を含め)と働く人々の生活を守るため、あらゆ
る民主運動にボランティアとして毎日動き回っています。そして夕方になると母校小
津高校のソフトテニス部の指導に汗を流し、その後のビールを自分へのご褒美として
毎日美味しくいただくという充実した生活を送っています。みなさん、「今日も元気
だ、ビールがうまい!」こうこなくっちゃね。さて、前置きはこれぐらいにして本題
に入ります。
 「核戦争から子どもを守りましょう」とはじまった母親大会は64年目となり、待
ちに待った「第64回日本母親大会in高知」の第1日目は、全体会場の県民体育館ス
テージに親子くじらが仲良く雄大に泳ぎ、お魚シールの要求カードが全国の参加者を
迎えました。そしてオープニングの追手前高校吾北分校と一番風の「清流太鼓」、渡
辺治さんの講演「憲法とともに歩みつづける」、スガジャズダンススタジオの「よさ
こい鳴子踊り」、高知のたたかいなど、尾葡m事をうならせた4300人の熱気あふれる
全体会となりました。
 2日目の分科会は8会場に分かれて、24分科会と2特別企画、4移動・見学分科会
など30のテーマで高知らしさをふんだんに取り入れた魅力あふれる内容の開催となり
ました。助言者・パネラーとして地元高知から多くの方々の協力があり、高知の人材
の豊富さを改めて実感することができました。
 第8分科会―障がいのある子もない子も豊かな発達を―の分科会申し合わせでは、
「憲法が保障する権利や子どもの権利条約、障がい者権利条約を生かし子どもたちの
豊かな発達を保障するため、要求運動をすすめること」、「障がい者が安心して自分
らしく生きていけるよう国の責任として社会保障の質を向上すること、財政を確保す
ることを求めていきましょう」などが確認されました。
 限られた準備期間の中で、「高知での日本母親大会を何としてでも成功させよう!
」との高知の母親・女性たちと県内各地の実行委員会の熱い思いに、全国のみなさん
から「さすが高知!すごい!」との声が続々と寄せられ、たくさんの感動を残し、の
べ8300人の参加で大成功のうちに終えることができました。
 母親運動は昨年、日本母親大会成功に向け、高知県内15ヶ所に立ち上がった地域実
行委員会と多くの団体の協力で、母親集会・母親大会の意義と役割を共有することが
できました。これからも「3人寄れば母親集会」「ひとりぼっちの母親をなくそう」
の伝統を受け継ぎ、今年の「第65回日本母親大会in静岡」の成功と母親運動の若い世
代への継承のためいっそう奮闘し、高知の日本母親大会で築いた大きな財産を、母親
運動の発展に活かしていきます。
大会成功のためにご尽力くださったすべてのみなさんに、改めて感謝を申し上げます

 本当にありがとうございました。「みちしるべ」読者のみなさん、また紙面でお会
いしましょう! 

§ 人生に負の経験など無し


              堀内 佳
 「みちしるべ」に投稿させていただくのは何年ぶりになるだろう。
先日、母校の創立90周年記念行事と、その後の祝賀会に参加し、お世話になった先生
方や諸先輩方の懐かしいお声に接する中で、改めて自身の半生と深く向き合う機会を
頂いた。
丁度そんな折、有光先生から「久々に原稿を書いてみないか」というオファーが有り
、僭越ながらこうして皆さんに駄文を読んでいただくことになった次第。
 私は5歳から17年間在学した盲学校を卒業後、大変有り難いことに鍼師として整形
外科医院に15年間勤務させてもらった。そして幼い頃からの憧れだったラジオパーソ
ナリティーや、シンガーソングライターを生業にすべく、その病院を退職して20年。
現在は全国の学校関係を中心のコンサート活動の傍ら、RKC高知放送ラジオで自身の
名前が頭に付く所謂「冠番組」2本を担当し、同局テレビの生放送番組にも、おおよ
そ月一のペースでゲストコメンテーターとして出演させて貰っている。その他テレビ
CMの歌やナレーションでも少なからず皆さんのお耳汚しをしているので、読者の中に
も、ひょっとお気づきくださっている方が居られるだろうか。
 その間、左右の中大脳動脈瘤による2度の開頭手術を受けたり、悪性リンパ腫(ス
テージ4)で「一か月が山」という告知を受けるなど、そうそう誰もがしないような
闘病を何度も経験しながら、受け狙いでも負け惜しみでもなく「私は健康だけが取り
柄ですから!」などと言い放った後で、改めて自身の罹病歴を思い出して苦笑してい
るような脳天気な私も、今年で58歳になる。
確かにここまで「取り柄」と言えるほど健康な年月ではなかったけれど、様々な形で
出会った多くの方々のお陰様で、さしたる苦労も無く幸せな日々を過ごすことができ
ている。
特に07年08年と相次いで両親を亡くし、その直後リンパ腫で自身の命と向き合うとい
う一連の経験は、私の価値観、人生観を豹変させた。「人生に負(ふ)の経験など無し
」という思いが確信に変わったのも、この体験を踏まえてのことだった。
 周囲から見れば限りなく「負」に見える経験も、それを貴重な経験として以後の人
生に生かせば、それは明らかにプラスの経験で、逆に誰からも羨まれるような境遇で
あっても、それに甘えて堕落してしまえば、それはその人の人生にとってマイナスの
要素ということになる。乾電池の極性は変えられないが、個々の体験のプラマイは自
分次第で変更可能なのだ。つまり人生における全ての経験の正負は絶対的なものでは
なく、それをプラスの経験として以後の人生に生かしてさえいけば、人生に負の経験
など無いと今は確信している。
 とは言え、最近毎日のように報道される子どもの虐待死や、いじめに耐えかねての
自死等々、そんな不条理な出来事の犠牲になった命たちにとっても、その経験は果た
して「負」の経験ではないと言えるのだろうか。むろんそんなわけがない。彼らを追
い詰め犠牲にした者たちの愚行は断じて赦されるものではないし、そんな事件がショ
ッキングに一時的に報道され時間と共に忘れ去られ、同様の事案が連綿と繰
り返されるとすれば、それは彼らにとって紛れもなく負の経験でしかない。
そうであれば、それをプラスに変える術を奪われてしまった彼らに代わって、憎むべ
き愚行と悲しい犠牲を無くすために、私たち一人一人が出来うる尽力をすることこそ
が、「人生に負の経験など無し」という私の持論を具現化することにもなると考え、
微力ながらコンサート活動やテレビラジオ、そしてSNSなどを通して「いのち」の尊
さや人と人との「温もりを伝え合える繋がり」の大切さをアピールすることに努めて
いる。

 ところで、最近競泳選手の池江璃花子さんが白血病に罹病されたことが大きく報道
され、それについて現職の五輪担当大臣が「金メダル候補で日本が本当に期待してい
る選手なので、がっかりしている」とか「盛り上がりが若干、下火にならないか心配
している」などと、国会答弁内で発言した。同じ「血液の癌」を経験した私は、この
発言を聴いて本当に胸を抉られるような、吐き気にも似た感覚を覚えた。
これは「失言」などという軽いものではなく、卑劣極まりない「暴言」に他ならない。
そしてこの発言は、ともすれば個々の命より国家を重んずるとも思えるナショナリズ
ムが幅をきかせる今の風潮を象徴している気がするのが、私の邪推であればいいのだ
が・・・。
 一方、池江さんの罹病報道後、骨髄バンクへの問い合わせが普段の60倍にも達した
ことや、多くの励ましのメッセージガ寄せられたことなどを踏まえて、「同じように
辛い思いをしてる方達にも、本当に希望を持たせて頂いています。」とツイッターに
投稿した彼女。突然「白血病」という告知を受け、自身のことで精一杯のはずの18歳
のこの投稿には、本当に頭の下がる思いだった。
 当然ながら、池江璃花子さんには何が何でも病気を克服してもらいたい。それは彼
女が東京五輪で金メダルが期待される日本人選手だからではなく、18歳にして命に関
わる大病に突然犯されながらも、冷静に他人のことにまで心を配る素晴らしい一人の
人に何としてでも生きてほしいから。
残念ながら私自身は年齢制限や病歴のため、骨髄バンクへのドナー登録も献血も出来
ないけれど、一人でも多くの患者が救われるために、啓発活動など、微力でも尽力し
続けることは言うまでも無い。

 そんなこんなで、これまでに挙げた事の他にも、自動車の所謂「煽り運転」や、イ
ンターネット上に溢れる所謂「不適切動画」の問題、更には他国とのギクシャクした
関係等々、気持ちが暗く淀んでしまうようなニュースが日々氾濫している昨今、ただ
雰囲気に流されて一喜一憂するのでなく、情報過多の現状を逆手に取って、出来る限
り多方面から多角的な情報を得ることで、そのニュースの本質や対策を探るといった
積極的なアプローチをして、自身の生存力を鍛えるトレーニング材料にしようと心が
けている。
そして一応マスメディアの末席に身を置く者の一人として、報道の在り方についても
更に勉強し、自身の仕事にも生かし深めていきたいと改めて思う今日この頃なのである。

§ 手と頭を使う料理は一番のぼけ防止


             田處 敬子

 「ばぁば」こと、鈴木登紀子さんをご存じですか? そうです。NHK「きょうの料
理」に40年以上も講師として出演している日本料理研究家です。1924年生まれだそう
ですから今年94才になるということになります。私は「今日の料理」は毎日のように
見ていますが、「ばぁば」が出ると「うわー!まだ元気で頑張ってる」とうれしくな
ってしまいます。95才になろうとしている人が料理番組に出演するなんて驚きですが
、司会の後藤重義アナのだじゃれにも素早く反応するなど頭の回転の良さにも感心さ
せられます。リハーサルでは時間オーバーしても本番ではぴったり時間通り終わると
のことです。またエレガントな装いも話題とか。例えば、目の覚めるようなピンクの
ニットに刺繍を施した真っ白なエプロン、時にはすてきな和服での出演など。てきぱ
きと動く手元には桜色のネイルが華やかに塗られているそうです。年をとってもおし
ゃれは大事ですね。いくつも大病を患っているということですが、包み込まれるよう
な柔和な笑顔と優しい語り口は幅広い年齢層にファンが多いそうです。
 「ばぁば」は幼少期に母親から料理の方法を学び、結婚し、3人の子供を育ててい
るうち、近所で料理の腕前が評判となり30才後半から自宅で料理教室を始め、46才の
時に日本料理研究家としてデビューし、現在でもテレビ番組への出演や新聞・雑誌な
どでも広く活躍し、田園調布の自宅で月10日間料理教室を開いているそうです。
 どこからそんなパワーが出てくるのでしょうか。パワーの源はやっぱり好きな「料
理」と「仕事」なのでしょうか。「まあなんとかなるよ」といった根がのんきで楽天
的な性格も関係しているのでしょうか。私は、サピエ図書館で「ばぁば」の書いた『
ばぁばの料理 最終講義』『のんきに生きる「ああ、おいしい」は生きがいになる』
という本を聴いたことがあります。この本を聴いて食の大切さ、料理の基本、行儀作
法、ばぁばの生き方、考え方など多くのことを学びました。今回のタイトルにさせて
もらった「手と頭を使う料理は一番のぼけ防止」というのはこの本の中の一節に書か
れていた言葉です。
 私は「ばぁば」のように料理が大好きとはいえませんが、なるべく加工品を使わず
手作りを心がけています。週1回ヘルパーさんに買い物を頼みまとめ買いをし、無駄
なく1週間で使い切るようにしています。しかし、週の終わりになってくると食材は
だんだん少なくなってきます。今日は、明日は、何を作ろうかな?と冷蔵庫の中、乾
物や缶詰などのストックを確認し、あるもので献立を考えます。「これ、こんなにし
てみたらどうかな」などと想像するのも楽しみです。台所はちょっとした実験室みた
いなものですね。「この料理にこんなもの入れる!」とびっくりするようなものが入
っているかもしれません。でも、それはそれなりに意外にいけるんですよ。自分では
「びっくり創作料理」と名付けています。料理は段取りと道具が大事と言われますが
、私はテレショップが大好きで便利そうな道具があればすぐほしくなってついつい買
ってしまいます。なので、私の台所はキッチン用品が所狭しと置いてあります。人に
は「道具だけは揃っちゅうね.」と言われてしまいます。
 料理はまず献立を考え材料をそろえ、そして、いくつかのことを同時進行しなけれ
ばいけません。お湯を沸かしながら野菜を洗ったり切ったり、盛り付ける食器はどれ
にしようかなあと考えたり、手と頭はフル回転です。下ごしらえや調理の手順を考え
ることは、脳の活性化にもつながると思います。しかも料理をする間は何時間も立っ
たまま、そして食べて片付けまでしなければいけません。ですから体力も必要です。
私は足腰を鍛えるために洗い物をするときに片足立ちやつま先立ちをして「ながらト
レーニング」をしていますが少しは効果があるでしょうか?
 「ばぁば」は「私が作る料理が家族の命を支えていると思えば手は抜けませんよね
」と厳しいこともいわれていますが、「でも、今日は料理したくない、疲れてしまっ
た、そんな日は無理に作らず缶詰でも開けていればいいの」とうれしいことも言って
くれています。何をやっても三日坊主の私ですがおいしいものを食べるのは大好きだ
し、料理は毎日作らなければいけません。私にも続けられるかもしれません。
そろそろ手の込んだ料理は面倒になってきていますが、これからも頑張って料理を作
り、時には手抜きしながら、また外食も楽しんで、のんきに生きたいものです。なる
べく人の世話にならないよう元気でいたいと思っています。そしていつかみんなから
「敬子ばぁば」と呼ばれるようになりたいものです。いや、もう既にその年になって
いますね。
 それにしても年をとっても元気な人はたくさんいるものです。「ばぁば」だけでは
ありません。私は時々BSの放送大学を聞くことがあります。つい先日、生徒募集のコ
ーナーを何気なく聴いていると、94才で入学し99才で首席で卒業し、現在100才とい
う男性が紹介されていました。「えっ、100才?」と耳を疑いましたが、間違いなく1
00才の男性でした。かくしゃくとし、しっかりとした自分の考えを持ち、話し方も10
0才とは思えない滑舌のよいしゃべり方でした。大学といえば、萩本欽一さんは73才
から駒澤大学に通い、現在4回生だそうです。まだまだ元気な人はたくさんいると思
いますが、身近なところでは私の父方の叔母のお姉さんが今年96才になりますが一人
暮らしをしています。外を歩くのは少し不安があると言っていますが家の中のことを
ほぼ自分でこなしています。全く認知症にもなっておらず「若い者に負けてたまるか
」と思って携帯でメールを練習し、孫やひ孫たちとメールのやりとりをしているスー
パー叔母がいます。
 皆さんほんとに元気で生き生きとしておられます。やはりいくつになっても仕事や
趣味、新しいことに挑戦する気持ちを持つことが長生きの秘訣なのでしょう。人生10
0才の時代がやってくるといわれていますが50才からの折り返しの人生をどう生きる
か、また最近「終活」という言葉もよく聞くようになりました。残されたこれからの
人生をどう生きるか、どう始末を付けるか考えさせられるところです。

§ 言葉を通して感じること


         ロイ・ビッショジト

 皆さんはバングラデシュという国をご存知だろうか。私は、国際視覚障害者援護協
会の奨学生として1996年に同国から来日した。高知県立盲学校、筑波大理療科教員養
成施設を経て、現在は滋賀県立盲学校で理療を教えている。
 思い起こせば22年前、運の巡り合わせで突然の来日が決定した。来日までの僅かな
時間、ダッカ在住の日本人女性フセイン営子さんに日本語を教えていただき、ダッカ
大学の日本語講座に通ったが、当時の私は日本語の力が非常に乏しく、来日後は言葉
がほとんど分からず不安であった。援護協会の仲間との会話の中に「盲学校」という
単語が出てきた。その意味が分からず質問した私に、留学生の先輩は「それも分から
ないか?あなたが行く所だよ」と叱った。また、英語で会話をすると「英語はダメ、
日本語で話しなさい」と当時の理事長に言われ、日本語の単語も知らないのにどうや
って話すのか、と考え込んでしまった。
 そんな私が、高知県立盲学校に入学すると、週に3時間の特別授業があり、日本語
力を身につける良い機会となった。素晴らしい先生に恵まれ、ホームステイ先や周り
のサポートのおかげで日本語が徐々に分かるようになってきた。
 言葉が分ってくると、生活が楽しくなる。ラジオで野球の実況中継など、興味のあ
る番組を聞くようになった。会話も楽しめるようになった。その中では「日本とバン
グラデシュの国旗は似ているね」とよく言われた。バングラデシュの国旗は周囲が緑
で真ん中が赤だ。この共通点は本当に不思議である。
 しかし、これだけではない。私が日本語を勉強していく中でベンガル語との共通点
を発見した。なんと言葉の順序が同じなのである。動詞が文末に来て、最後まで聞か
ないと分からない。また、ベンガル語で使われている単語が日本語でも同じ意味で使
われているものがある。例えば、有る無しの「ナイ」という言葉は有る無しの「無い
」と同じ意味である。「お茶」を「チャ」といい、「人力車」を「リキシャ」という
。そして「名前」は「ナム」というのである。日本語では疑問文の最後にたいてい「
か」が付くのだが、ベンガル語では「キ」となる。例えば、日本語の「お名前は何で
すか?」は、ベンガル語では「アプナル ナム キ?」というように言う。最初にこ
れを習った時、驚きとうれしさで日本語に親しみを感じたことを今でも覚えている。
 このようなベンガル語だが、存在が危機にさらされた時期があった。当時、東パキ
スタンだった今のバングラデシュは、西パキスタン政府に「ベンガル語はだめ、ウル
ドゥ語で話しなさい」と迫られていた。1952年2月21日にベンガル語を守る運動が高
まり、多くの犠牲者を出した。昨今、国連がこの運動を認め、2月21日を国際母語デ
ーとしている。現在のバングラデシュでは「尊い命を犠牲にして守ったベンガル語を
大切にしよう。きれいなベンガル語で話そう」という意識が強い。皆さんにもぜひ美
しいベンガル語に触れてほしい。
 日本に来て日本語を習った時も私は日本語の美しさを感じた。しかし今、時々聞こ
えてくる日本語に心が痛む。「きもい」「うざい」「あざす」などである。時代によ
って言葉は変わることは理解しているが、その変わり方は美しいものであってほしい
。美しい日本語を美しいままに残していてほしいのである。

§ ちょっと一言  「OK」の語源は?


           有光 勲

 皆さんよくご存じのように、OKとは、「よろしい」、「わかった」、「賛成」な
どのように物事を肯定する際に使われる言葉ですね。それではこの略字の語源は何な
んでしょうか? それは、all(全て) correct(正しい)の略だといいます。おかし
いですね。それならACにならなければいけませんよね。それではなぜこのACがO
Kになったのでしょうか。
 それには、このようなエピソードがあります。アメリカの第7代大統領・ジャクソ
ン(1862〜1937)には、ちょっとおっちょこちょいなところがあったようです。ある
日のこと、部下が持ってきた書類に目を通したジャクソンは、「これでよろしい」と
いうことで、「all correct」とすべきところをなんと「oll korrect」とサインし
たといいます。
これをみんながおもしろがって、「ok、ok」というようになりました。それに対
してジャクソンはどうだったのでしょうか。「おい、その言い方もうやめろ」といっ
たのか、あるいは、開き直って自らも「ok、ok」といっていたのかはよくわかり
ません。日本人でもallをollなんて書く人はまずいないのではないでしょうか。それ
を、アメリカ人のしかも大統領がやったのですからおもしろがられたのも当然ですね
。ジャクソンは「それも愛嬌、愛嬌」と苦笑していたかもしれません。

 ところで、似たような言葉に「AOK」というのがありますが、皆さんはご存じで
すか。視覚障害者で音声ワープロを使っている人にはよく知られています。
 今からちょうど30年前になりますが、はじめて視覚障害者が画面の文字を音声で確
認しながら漢字仮名交じり文が書けるワープロができました。それが「AOKワープ
ロ」です。この名前の由来は、そのワープロの開発に携わった私の有光、高知システ
ム開発の大田社長、故高知盲学校北川教諭の頭文字をとったものだと思われています
。しかし実際はそうではありません。画面の文字が完全に音声化されたとき、「音声
、all OK」という意味で「AOKワープロ」と私たちが命名したのです。私は、小心
者ですから自分の名前の頭文字をワープロの名前に入れるなどということは好みませ
ん。しかし、AOKのAは有光のAであると思われたとしても名誉なことですから決
して悪い気はしません。
 今ではこの「AOKワープロ」というのはなくなり、「マイワード」という新しい
ワープロソフトになっています。しかしこの「AOKという言葉はなくなってはいま
せん。高知システム開発の各種ソフトを立ち上げる際パソコンのFあ12キーを押す
と「AOKメニューの選択」というのが出てきます。そこには15種類ほどの各種ソ
フトがありますから、下矢印キーで選んでエンターキーを押せばそれこそOKです。
 最後の方は、すっかり私の自慢になってしまったようですね。申し訳ありません。
しかし、これが私の毎号・エッセイの書き納めということになりますので、どうか悪
しからずご容赦ください。

§ 編集後記 〜 退任のご挨拶 〜


            有光 勲

 私は、今期を最後に編集長という大役からおろしていただけることになっておりま
す。それはなぜか? はい、ほかでもありません。高齢につきということです。
 私は、この仕事をもう30年以上もやってきました。以前には、編集委員も7人ほど
いて、毎月編集会を持ち、みんなで分担して記事集めなど行っておりました。しかし
、そのうちに一人減り、二人減りし、また編集委員のメンバーも替わり、そのような
ことができなくなってしまいました。そこで、やむなくこの10年ほど前からは、私一
人で記事集めや編集など行ってきました。さらに、この何年間かは、ページ稼ぎのた
めに私が毎号エッセイを書いてきました。そんなわけでさすがの私もすっかりばてて
きました。もうこれ以上発行を続けていく元気はありません。十分なことはできませ
んでしたが、ただ一つ、これまで1度も欠けることなく予定通り発行し続けることが
できましたのは、私にとりまして大きな喜びです。
 今後は、若い人たちに引き継いでいただき、いい会報をつくっていってもらいたい
と思います。永年にわたるご支援・ご協力ありがとうございました。



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